気まぐれ日記 その16

 聖句の一文を大切にする人がいる。
 2015.4.19


 聖句の一文を大切にする人がいる。
心に刻み生きて行く人がいる。
 
 だのに、なのに・・・

 そんな聖句をいとも簡単に読み飛ばす私は
何を学んでいるのだろう?
 
 
導きとはなんだろう?
  2015,5,1

導きとはなんだろう?と考えていた。
 こんな考えが浮かんできた。
 「今まで思い付かなかったことを思い付く」
 「自分では絶対にしないだろうと思うことをする気になった」
 それらはその時に私に必要な神様からの導き・・・。

でも、私はへそ曲がりだから・・・
例えば「突然に、英語を学ばなければという思いが強くなったとする」
 でも、それって何も特別なことではないし・・・
志しのある沢山の人が普通に学んでいることでしょう。
 
それが導きなの?
 と問い直してみる。

すでに、人がしていることでも・・・前例があることでも・・・
今、あなたがすべき事を示すのが導き。

 人がすでにしていることでも前例があることでも
 あなたが従順に「その導きに」従えば主からの豊かな祝福を
受けるのはあなたです。 

神殿面接
 2015,5,10


 神殿面接を先日・・・ビショップとステーク会長さんに
してもらいしまいた。
 
 その時々の管理者の人は違っても・・・
もう何回も更新しているので聞かれることはわかってる
のですが改めて・・・思いました。

 バプテスマを受ける時に、面接をしてくれる宣教師から
受ける質問とほぼ同じ・・・。

 天父とイエスキリストと聖霊を信じますか?
 この教会の大管長を支持していますか?
 知恵の言葉、什分の一、純潔の律法などの戒めを
 守っていますか?
 隣人と正直に接していますか?
  
  と、面接の言葉はつづく。

いつの頃だったか・・・
質問を聞きながら心の中に自問する自分がいる。

 年と共に信仰が深まっていますか?
 ただ、教会に集っているだけではありませんか?

面接してくれる人の質問に「はい」と答えるのですが・・・
自分が出した質問にはなかなか「はい」とは答えられない。

 もしかすると、自分では気づいていなけど
心の中では何か見えているのかもしれない。
祈り
 2015,5,11


  祈り。
必要だと思う時にしています。
 特に、友達の事をふと思ったり
顔を思い出したりした時には・・・
 口に出して祈ったり・・・
あるいは心の中で・・・

 時間がちょっとでも長くても
その人のために祈ります。
 もしかしたら、私の祈りが
助けになるかもしれないから・・・。

 神権って・・・つまるところなに?
   2015,6,25 

 神権って・・・つまるところなに?
と、ずゅーと考えていました。
 
教会員生活がも長いので、色々なところで
説明も受けてわかったような気がしていましたが・・・。、
 わかったような、わからないような・・・
 
 私の心のなかでピーンとこなかったのですね。


 つい先日・・・改めて考えていた時に・・・。

 まず、神権って最初のどこが出どころなの?
と、考えていたら・・・
 神様の持てる全知全能の力。 
すべてを知りすべてを行うことが出来る力ですね。
 それが神権の出発点だと気づきました。

 神様がご自身でこの全知全能の力を使っている
分には、私たちは「神の力」という言葉で表現してし
まいますよね。

 しかし、神様はその力を人に分け与えた時に、
特別な言葉を必要としました「その名前が神権」です。

 ですから、神様の全知全能の力言い換えれぱ
「神の力」を人に分け与えた時に「神権」と呼ばれる。

 人に授けられた「神権」は神様の用事をする時に
のみにその力を発揮する。


 その力を行使するときは私たちがふさわしけれぱ
神様が思うことやされようとすることをそのまま行うことに
なるのです。
 
 神様はご自身が行うことを神権授けた人を通して
実行されます。

 教会全体の管理を大管長に、ステークの管理を
ステーク会長、ワード支部においてはビショップ。
 というように、神権を持てる人の中から代表を選んで
神の御心を伝え実行される事を願っています。


 色々と書いて来たけど…つまるところ・・・。
神様の力を人に分けたということです。
 人に分けた力を特別に「神権」と呼びましょう。

 人に渡った神権は神様の御心や儀式を行う時に
その力を発揮できます。

 特に神権を使って儀式を行う時は、この世の記録
としても残りますが・・・天においても記録されている。
 要するとに、私たちたちが死んだ後も有効であると
いうことですね。

 ・・・ということです。

 うーん。どこかで聞いた話だけと゜・・・
私の心の中ではこれで納得です。

  参考までに・・。 



  
モルモンはカルトなの?
 2015.6.26

 私の友人は・・・仕事から帰ればパチンコ
そして、パチンコから帰ればお酒の生活をしていた。

 そんな彼が昨年の夏からバイクに懲り始めました。
きっかけは、友達に勧められたようです。
 
 まず、大型バイクの免許を取りに行って。
バイクを買って・・・。
 少し借金も増えたそうですが・・・払えない額では
ないし・・・楽しそうです。

 そして、ツーリングのために日曜日の朝早く
5時くらいには家を出ていくそうです。

 そんな生活をしばらく続けていくうちに
生活態度も変わってきたようです。

 土曜日の夜は酒は飲まない。
そして、早く寝るようになったそうです。

 パチンコなどの無駄遣いもしなくなったそうです。

 私から見ても。以前とは違ってバイクに乗った
おかげで健全な生活になったなと思います。

 さて、なぜこんな話を書いたかたというと・・・。
時々、モルモンをカルト宗教という人がいますが・・・。

 今話したバイクの彼のように・・・
健全な生活になっていくと誰もが褒めるのに
それが宗教だとすぐにカルトという言葉を使いた
がるのはなぜなんだろう?

 
 お酒もたばこも女もしない・・・
その上教会に毎週集う・・・。
 健全そのものの・・・生活ではないだうか?
 
 神様が住む場所に入るにはそれを守るのが
条件だとしたら、自然と守るようになりますよね。

 バイクの彼のように、二日酔いでバイクを
運転したら免許がなくなる。
 
 夜更かしをしたら、ツーリングの途中で眠くなり
楽しくない。のと同じで・・・。
 
 必要だと思えば・・・色々な約束事も必然的に守ります。

 あ・・・そうそう。
 人って、自分以上に真面目だと思うと・・・非難したくなる
癖があるのかもしれない。

 私も言葉では出して言わないけど…
 時々、「そこまでしなくたって」とか
 思う時あるしね。
 
神殿結婚に参加して
   2015 7 25 

 先日、東京神殿の中で行われる神殿結婚に出席してきました。 

  窓にはステンドガラスのはめ込まれた部屋の中央には聖壇があり
それを取り囲むように出席者は輪になっていました。 

  誰もが儀式を待つ静かに流れる時間で、新郎新婦の初々しい姿と
新婦の溢れ出す笑顔に自然とにっこりとしてしまいした。 

  新郎と新婦が座っている椅子の前にはこれから執り行われる儀式の
ための聖壇があり、その向うの壁には大きな鏡が備え付けられてあり
二人の姿を映し出しています。

 微笑めば微笑みえしてくれ、意地悪な顔をすれば意地悪な顔を返し
てくれます。 
 鏡はウソをつきません。 

 そして、ほんの少しだけ視線を変えれば・・・鏡に映る二人の姿の後ろ
にまた二人が写っています。 

また、その後ろにも二人が写り・・・新婦が嬉しさのあまり流した涙を
ふき取る姿も幾重にも重なり続ける自分が真似をしています。 

 ふと何かを不思議と思ったのか、新婦が振り向くと満面な笑みと
一滴の涙を頬に流す花嫁に出会って、口もとがかすかに動いて
軽く会釈をしている姿が愛らしかった。 

 鏡の中に入り込んだ二人の後ろには、幾重にも幾重にも二人の
影が続き、正面には微笑んだ二人が続いている。 

人生の流れの中で、時には振り向き立ち止まり・・・嬉しくて・・・
悲しくて涙してまた前を向く。 

 自分たちの後ろに自分たちがいると思っているかもしれないが・・・
年を重ねるとわかってくることがあります。自分たちの後ろは
生まれてくる子孫があり・・・自分たちの前には先祖がいたことを・・・。  

  この合わせ鏡は今の幸せと永遠に続く二人の未来と過去を
映し出しているようでした。k,y 
持っていけるもの
   2015.8.26

 東京神殿に参入する日の朝。
なぜかモルモン書が読みたくなって5分ほど読んだ。
 そして、ブーンと出発。
 神殿の駐車場からテクテクと歩いて神殿のロビーに
幾人かの人がソファーに座っていた。
 見るとはなしに、目に飛び込んで来たのが
モルモン書を熱心に読んでいる子供たち・・・。
 受付を通り、着替えて、神殿内の礼拝堂で座って
いると、目の前に椅子の背もたれのラックの中の
モルモン書が目に付いた。
 しばらく見つめて、手に取ってパラパラとめくって
いると・・・儀式の始まりを知らせる執行者。
 エンダウメントという儀式が終わり日の栄の部屋の
部屋で座ると・・・なぜか傍らにあるモルモン書が私の
目に留まった。
 その時、ふと今日は「モルモン書が目にとまるな」と
思った瞬間、
 「死んで持っていけるのは。神様のみ言葉だけ」だと
悟りました。
 

 
 
主の約束
  2015.12.6

 あまりストレスなど感じたことない私が・・・
ここ数週間とあることに巻き込まれて心の中に嵐が
居座っているような気持ちでいました。
 
 気が重く、そのことを考えたくなくても嫌でも
考えてしまう状態におちいりました。
 
  もともと、考えたくないのですから
あまり良い妙案も浮かぶはずもなく、

ただ悶々と「どうしたらいい? どうなるの?」
という思いばかりが心を通り過ぎます。
 
そんなある日のこと、もう習慣になっているお
祈りをしているときに・・・

 いつになく必死に今の状況を話している自分に気づきました。
 もうほとんど涙目になっている自分に気づいたのです。

 心の中では平安を感じて穏やかになっていく自分がそこにいました。

 問題が解決されたわけではりませんが、主のみたまを感じて
抱え込んだ問題から離れる時間が持てたことによって、
少しだけ心に余裕が出来ました。

 そして、「なんとかなるさ」とまったく根拠のない自信が
ちょっとだけ浮かんできた。

 主はこんな約束をしてくださっていることを思い出しました。
「あなたがたがわたしの言うことを行うとき、
主なるわたしはそれに対して義務を負う。」DC82:10
 
主の戒めを守るときに、主はその事に対して責任を持ちそ
の人を守られる。
祈りという習慣を身につていたので主は私に慰めを運んでくれた。      
 赦すこと と 忘れること
      2015.12.20 

  赦すこと と 忘れること
 
 もし、人を赦すことが出来ないなら
そのことを忘れた方がいい・・・。(考えない方がいい)
 その人をもっと、嫌いにならないために。
 
 赦すことが出来ても・・・
 記憶や思い出になって一生私たちは
 そのことを忘れないでしょう。
 
 思い出したその時に、その経験を「くすっ」って
笑えればは・・・それは過去の経験として
 認識しているのだと私は思います。
 
 でも、もし・・・怒りがこみあげてくるようなば
それは・・・心から赦してないことになるのでしょうね。

  赦すこと・・・
 それは自分に非がなくても・・・
 理不尽だともっても・・・
 
 主はあなたが先にその人をその事を赦すことを
 望んでいます。
 
 いつも、なんで私が・・・ と思う気持ちが
 起こりますが・・・。
 
 主イエスキリストは贖(あがな)いの力を持っておられます。
 最後の裁きの時にすべて主の御心のまま
 すべて正しく公平に裁かれます。

 その時に、あなたのすべての行動を主が贖われます。


   まったく、上の話とは関係ないけど・・・
 先日、良い言葉に出会いました。 
「人には幸も不幸もない。考え方しだい。」 
 
反省と悔い改め
   2016.2.2

 反省と悔い改め

 今までほとんど同じだと私は思っていました。
今日・・・まったく異質なものだと感じました。


 反省は、イエス・キリストの贖いの力が得られないので
神から赦される事はないということ。
 自分自身の成長には役にたちますが・・・。

 
 悔い改めは、イエス・キリストの贖いのもとで行うので
神の赦しがえられるので罪が消し去られる。

 ということに気づきました。  


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