2013.2.2
朝、手には弁当箱を持ち、ドタバタと廊下を走り、急いで靴をはき・・・
ドアを開けて
「行ってきます」と声を張り上げる。
いつもならば「いってらしゃい」という返事が聞こえてくるけど・・・今日はない。
「おや!」とは思ったけど、「朝早いから二度寝かな?」と思いながら少し淋しく仕事に向かった。
時計が10時をさす頃に、携帯メールの着信音。
誰かな、こんな時間に・・・思いながら開いて見ると。
「朝はゴメンね。いってらしゃい」 と短いメールが妻から送られてきた。
ちょっと、にっことした瞬間にある思いが浮かんできました。
「結婚した姉妹は家庭にいるべきである」という教会の教え。
いつもある声がない。それだけで淋しさを感じた今朝の私を思い出した。
もし子供たちが学校に行くべき時間にそして帰って来る時間に、誰もいなかったら。
最初は子供たちも淋しい思いを感じるに違いない。 大人はそんな思いを、「そのうち慣れるさ」で片付けてしまい。そして、子供もいつしか大人の期待通りに慣れてしまう。だから、お互い当たり前だと思いはじめる。
その当たり前になってしまう感覚の危なさを教会の指導者は問いかけているのだと思った。
私が感じた淋しさ感じない子供達は、親のいない時間を気ままな自由な時間と勘違いをしてこの世の中らかいろいろな影響を受けはじめる。
もちろん、すべての子供達が良くない方向に進むとは思わないが・・・母親の目が届かなくなった分だけ子供たちにサタンの誘惑が増すのは事実です。
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2013.2.6
教会の責任が重荷なる時・・・
責任を受けた時は、気力も体力もあるので楽しいのですが
段々蓄積疲労のように心と体からやる気を奪っていく・・・。
ある意味、仕事を二つ持っているようなものですからね。
そうゆう時は、他人の事は忘れることです。
神様と私・・・をもう一度新たにすることです。
この関係の中に、他人を入れると(親や兄弟や教会の責任も
入れてはいけません) 必ず信仰を離れてしまいます。
私は、イエス・キリストの贖い・・・(言い替えれば、イエスが
私を救う力がある)を信じて、聖霊によって証を受けることです。
証を受けるとは心の中に「良い思いや明るい気持ちややる気
なんとかなるさ とか イエスは救い主なんだという実感や思い」
などがほんの少しでも心に入り込んできた時のことを言います。
もしかするとほんとうにわずかに感じる思いかも知れませんが
でも、それは聖霊からの証です。
それを、心に受け止めて信じていくことが大切です。
その上で、責任が重荷ならば・・・しばらく責任はお休みをした方が
いいかもしれません。
責任を続けて、重荷になりいつしか信仰を失う前にね。
マタイ18:8−9にあるとおりです。
手や足、目を「責任」という言葉におき変えると
わかりやすいかも・・・。
勘違いしてもらいたくないのは・・・この聖句は
あくまでも、信仰を失う前にということが前提です。
8節ならば・・・
もし、あなたの片手または方足が罪を犯させるならば
(信仰を失う前に)それを切り捨てなさい。
意味がすっきりするでしょう?
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2013.2.6
心に傷を背負ったまま生きている人に・・・
それでも、あえて・・・
すべての受けた被害もその裁きはイエス・キリストに
任せるというのが主の教えです。
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 マタイ7:1
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2013.2.6
祈りが聞き届けられないと思う時は・・・
もっと、心を込めて祈る。
祝福(神様からもらった幸せの時)をかぞえてみる。
イエス・キリストの贖いや教えを心にとめる。
もし、直せない罪で悩んでいるならば・・・
「今は無理でも、また同じことを繰り返してしまうかもしれないけど・・・
でも、そんな私でもイエス・キリストを信じています。いつか、直せる
自分がいることを心の中で信じています。そして、私の過ちを
忘れてさせてください」
でも・・・聞き届けられないと思うならば・・・
聖書をパッと開いて、目に留まった聖句を読んでみましょう。
まったく、今の自分とは関係ない聖句だと思っても・・・
聖書を開いて聖句を読んだ・・・という信仰を主はあなたが
今出来る最大限の犠牲として受け入れてくださっていまよ。
人が犠牲を支払えば・・・当然、主は主の祝福をその人に
お与えになります。
(参考聖句 旧約聖書 レビ記26章 教義と聖約132章5節)
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2013 3 10
その日は朝から心に思う事がありその度にかき消していた。
午後になり、またその事が心の大部分を占めるようになった。
しばらく考えあぐねて・・・「今日はこれで3度目だ」と心の中で
自分に話しかけていた。
「さて、どうする?」との言葉のあとで
「まぁ、あの人のところに行ってみよう」ということで落ち着いた。
車を走らせ、その人の家に着き玄関をノックする。
声をかけるが、家の中に居る様子もない。2度3度と声をかけるが応答なし。
渋々、「なんだったの?」と言いながら車に乗り込み鍵を差し込むと同時に・・・
「よく読むリアホナの記事ならば、劇的な改宗談のはじまりじゃないの?
確かに私は聖霊の導きだと思ったのに結果がでないね」とか・・・
神様に話しかけていましたと書けば聞こえがいいが少しぼやいている
自分がそこにいました。
自宅も近付き前を走る車のテールランプを見ながらもう忘れようと
思って鼻歌を歌いはじめた時に「結果はでなかったかもしれませが、
それは問題ではありません。あなたを導く聖霊に従い今日あの人の
ところに訪問しました。それが主にあって大切なことです。
居るか居ないはあの人の選びです。」
と、心の中にドッカンと入ってきた言葉。
思いもしない聖霊からの答えでした。
それ以来、私は心に浮かんだことは出来る限りやろうと思うようになり
ました。そして、それをやって良い結果が出なくても主は私の従順さを知
っているという気持ちがとても強く持てるようになりました。
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2013 3 10
マタイ25:35− 45
もっとも小さい者のために、主は私を導かれ連れて行かれる。
それは、ほんの数歩の歩いて行ける距離かもしれないし
地球の裏側かもしれない・・・
私が持てる福音やこの世の知識を伝えるために・・・
主は主に従う人々を主の思うがままどこへでも導かれる。
気づいて仕えるのにこちらに都合の良い時だけではない。
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2013 3 10
え〜っとネ。お祈りをしていると自分の意志とは
関係なく兄弟や姉妹、知らない人の名前が出てきたりします。
と、メールをもらって・・・
私にもあります。
おそらく、誰にでもあるとは思うけど・・・。
急に、「あの人どうしてるだろう」って思う事。
あるでしょう?
でもね、5〜6年前だったかな・・・。
心に思ったことや浮かんだ名前は、今私が必要として
る事とか人だと思ってね。
短くても即、お祈りをするようにしました。
それが、どれだけ役に立つか私にはわからないけど・・・
もしかしたら、もうちょっとの力になっているかもしれないと
思う事にしました。
結果は、私に届かなくても・・・
その時に、お祈りをしたという事は神様はしっているから・・・
それだけで充分でしょう。
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2013.5.26
祈りが答えられない理由
1 祈り求めていることが神様と同一の思いや判断ではない。
2 神様が何らかの理由で答えを差し控えられている。
3 主に従わなかったために、懲らしめを受けている期間。
4 主の警告を無視して、主に従わず罪悪が熟したために滅ぼされる。
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2013.5.26
「贖い」(あがない)とは、私が犯した罪を「ごめんなさい」と心から
イエス・キリストを信じながら謝る時に、イエス・キリストがその罪を
引き受けてくれること。
引き受けられたのだから、私の罪は取り去られる。
と、最近お祈りの時に自分に話しています。
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悪い感情が心に浮かぶこと自体は悪い事ではありません。
それは、極極自然なことなのです。 |
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2013,7,22
にょきにょきと心に浮かぶ悪い感情は
誰にでもありますよね。
たとえば、意地悪をされた時に「なんだよ。」と
心に浮かぶ思い。
良い事をしたつもりなのに「そんなことされたら迷惑だ」
とか言われ時に「ありがとうじゃないのか」と
憮然とする思い。
そのような怒りの感情が湧きだしてくる時。
普通の人でも、特に教会員だと悪い感情が
浮かんでくること自体が嫌悪感の源だったりします。
自分は進歩成長のない人だと責める理由にして
しまったりしてしまいます。
でも、悪い感情が心に浮かんでくること自体が
自分が未熟者で進歩成長していないせいなんでしょうか?
と、ふと考えました。
そんな時に
喜怒哀楽・・・は神様が私たちに備えてくださった
感情だということを思い出しました。
喜びも哀しみも楽しい時も・・・ほとんどの場合は
それを感じたからと言って自分を責めることはしない。
怒りは特殊な感情なので、怒りを感じた時には
その人の性格が優しければ優しいほど自分を責めてしまう。
しかし、怒り・・・言い替えれば悪い感情が心に浮かんでくる
ことそれ自体は悪い事ではないことに気づいてください。
それは、神様が私たちに備えさせてくれた自然な
感情なのです。
赤ちゃんが無邪気に微笑みかけてくると、こちらの心も
幸せになります。
怒りも幸せもどちらも心が素直に反応しているだけなのです。
よ〜く、心を観察していると
悪い感情を抱いた時のすぐ後に考える事が、私たちを
罪に落としいえるか、そうでないか・・・違いを生み出すのです。
「なんだあいつは・・・」と悪い感情が浮かんできた時に
「仕返しをしてやろう」とか「あいつとは口を聞かない」と悪い
感情のまま対処したらそれは後々罪の意識を持つことに
なるのかもしれません。
しかし、悪い感情を感じた時に・・・これを良い機会ととらえ
良い方向に向かうにはどうしたら良いかと改善の方法を探す
チャンスととらえられれば悪い感情は自分の行動を変える
センサーの働きをしてくれることになります。
そう考えると悪い感情を心に感じる自体は決して悪い事で
はないのです。
それは神様が私たちに備えてくださった感情であり危険を
知らせるセンサーなのです。
その後に考える自分の行動が良いか悪いかが罪に落し
いれるのです。
次に、悪い感情を持った時に少し冷静になって・・・
「どうしたら、良い方向に行くだろうか?」考えてから行動
してみては・・・。
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