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2011,12,25
今、二十数年前に大阪阿倍野の餃子の王将で
ご飯を食べながら 宣教師のあぜつ長老と
話した事を思い出した。
イエス・キリストを知っている。
イエス・キリストの信仰を持っている。
イエス・キリストの証(あかし)を持っている。
同じようだけど・・・違う。
さて、あなたはわかるかな?
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2012.1.1
先日、モルモン3世の方と話をしました。
(まるでルパン3世みたいだな〜)
彼は30才くらいでしょうか?
私より若いのですが・・・。
そんな彼と「救いの計画」について話題が出て・・・
ふと、こんな質問をしてみました。
「初めて聞いたときに信じられたか?」
すると、
「はい、そして今でも疑りません」
と、淡々と話す言葉には疑りなどという
ものはまったく感じられませんでした。
そして、私は・・・
「なぜなんでしょうね?」と聞いてみました。
すると、
「小さい頃におじいちゃんから聞いたから・・・
それが当たり前だと思ったのだと思う」
と、話してくれました。
信仰や証が純粋に親から子に伝えられ
そして受け継がれていく家系を目の当たりに
した瞬間でした。
どんな場合でもブレずに「救いの計画」を
基本とした生活ができるのは、小さい頃に
信仰や証を持って教えた家族の力なんですね。
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2012.2.5
人は自分の時間の中を生きている。
聖書の時代の人々は、自分の目の前の問題に直面してその事で悩み苦しみ、祈る。
モルモン書の時代の人々も、やはり自分の目の前の問題に直面してその事で悩み苦しみ、祈る。
ジョセフ・スミスの時代の人々も、やはり自分の目の前の問題に直面してその事で悩み苦しみ、祈る。
そして、私も、やはり自分の目の前の問題に直面してその事で悩み苦しみ、祈る。
どの時代であろうと、主は約束してくださっている。
主を信じ、主を頼り、主に祈れば助けてくださると・・・。
先日のことである。
大きな工事現場で、仕事をしている時にパイプとパイプを縛りつけるのに結構多量に針金が必要になったのに、無くて私は困り果ててしまったのです。
「どうしょう?」と心の中で呟きました。
思案にくれていときに、他の用事でそこを離れて他の場所で少しだけ作業をすることになりました。
私はそこに行き、作業をしている時にフト足元に三分の二が土に埋もれて錆びている針金を見つけました。 私はビックリしました。錆びついてはいるけれど・・・十分に使える針金が目の前にあるのです。(普段ならば誰にも見向きもされないゴミ扱いです)私は自分の持っている工具で埋まっている部分を掘り起こしながら、こんな大きな工事現場の中で何の苦労も無く探し当てことに神様に感謝しました。
もし、探し歩いていたら大きな工事現場の中を30分は探していたことでしょう。 そして、使い始めてすぐにまた驚きました。 私が必要だと思った量にピッタリだったのです。
これを偶然と呼びたい人も確かにいることでしょう。しかし、私はこの出来事は主の見守りの一つだと証いたします。
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2012.2.28
教会を離れる理由。
あなたはどう思いますか?
もちろん、細かな理由はいろいろとあると思います。
しかし、突き詰めて考えていくとこの二つかと行き着きました。
高慢と失望。
高慢・・・おごり高ぶり、思い上がる、自分が正しい。自分を正当に
評価してくれない。
失望・・・がっかり、こんなわけじゃなかった、人も神様も信じられない。
飽きる・・・同じ刺激を受け続けると人は飽きる。 どんなに好きな物でも
一週間も食べ続けると、もしかすると3食カレーだったら・・・
「もう、当分食べたくないよ」と思うものです。
そのことが重要なことでも大切なことでもおろそかにするものです。
どれも、その思いのなかを歩んでいる時はもっと創造力が豊かに
なって、サタンが囁く言葉を受け入れていき神様のことを忘れます。
そして、救いの道を思い出すことなく自分の思いに従ってしまいます。
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2012.3,4
目に見える答えが用意されていても、人は迷う。
その一つがモーセの蛇。 荒野を旅して人々が毒蛇に噛まれたならば、杖の上に掲げられた蛇を見たら直ると神様が約束していたにもかかわらずに、見ずに死んだ人々がいたということ。 (民数記21:8−9)
ジョセフの時代に、ジョセフ共に金版をみたオリバー・カウドリーやマーテン・ハリス、 ジョセフと共に数々の示現を見たシドニー・リグドンが教会を離れていきました。
目に見える答えを見ても、人は迷いそして離れていく。
現代では、特に教会員にあっても神殿の儀式。エンダウメントを見てから心を変える人たちがいます。
神殿の儀式は、人を日の栄えの王国に連れて行く方法が簡潔に表現されています。
奥深い教義とかが隠れていますが、儀式の指示通りに儀式を受けていけば神様に会いそして日の栄えの王国に入る方法を教えられて行きます。
これも、モーセの蛇のように目に見える形であるがうえに人は迷います。
多くの教会員がエンダウメントを受けていながら教会を去ります。
目に見える答えを受けたとしても、信仰を持つ続けていないとただの出来事になってしまいます。
日々・・・心に湧き上がる思いを感じられるように祈りましょう。
それが聖霊からの証です。
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2012.3.16
祈りが叶えられないと思う時。
長い間、祈り続けてもなんの変化も見えない時・・・
結果が出ない時
もう、自然のままに身を任せちゃったほうが楽だと
思う時。
諦めかけそうになる時・・・。
・・・って、ありますよね。
私にはそんな時に、思い出す言葉があります。
それは、聖餐会である姉妹がこんな証をしてくれたこと・・・。
「あ、今・・・神様に試されている」
と、言った言葉。
試されているものは・・・もちろん信仰です。
その言葉を思い出すと気を取り直して・・・
一からはじめます。
その他にも最近感じた事があります。
「祈りが叶えられないのは、神様のタイミングではない」
ということ。
人の思慮の浅い考えに基づくタイミングではなく、私たちに
理解出来ない深い考えに基づくタイミングに合っていない時に
無理なお願いをしている時・・・。
主イエス・キリストを信じて耐える時も大切だと
気づかされました。
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2012.3,28
「ごめんなさい」と「ありがとう」の言葉は人を
優しくさせてくれます。
しかし、先日ホームティング先でこんな会話がでました。
「ごめんなさい」ってなかなか言えないけど、
「ありがとう」って「ごめんなさい」よりも言える気がする。
ちょっと、考えて・・・「ごめんなさい」って自分の否を
認めるから心のなかにある自尊心が言わせないこと
があるけど、「ありがとう」は相手がしてくれたことに対し
て言うから「言いやすいよね。」
あなたはどうですか?「ごめんなさい」って素直にいえ
ますか?
自分が正しいと思ってしてあげたことは、尚更ですよね。
そんな時、深呼吸をして短い心の中でお祈りをしてみる
ものの・・・言える時と言えない時がある。
そのくらい、人の心は頑固なんですね。
でも「ごめんなさい」と「ありがとう」は人と人を結び付ける
優しい言葉です。
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2012.3.28
今日、聖餐式のパンを取っているときに心に浮かんできた言葉。
「かれこれ、30年もイエス・キリストの肉を記念するパンと血を
記念する水をとっているけど・・・何か心境の変化はありましたか?」
恥ずかしながら、こんな問いかけを感じたのは初めてでした。
その問いかけに、自分の記憶を過去にさかのぼってみました。
しかし、聖餐の水が配り終わる頃には、聖餐に対して特別な思い
を抱いた記憶なく学生だった頃に行き着いてしまいました。
何をしていたんだろう? と気落ちしてしまうほどでした。
その後すぐにこんな事を、思い出しました。
以前、神権会で聖餐について話していたときにある兄弟がこんな
事を話してくれました。
「聖餐式のパンと水をいただくことは、バプテスマの聖約を新た
にすること・・・色々と聖約したことはありますが、その中でも一番
大切なことは・・・それは毎週、パンと水をいただく事で私たちは罪
を許されていることになります。
もちろん、イエス・キリストを信じて悔い改めをするという条件の
もとで・・・」
毎週、毎週・・・聖餐の儀式は変りもせずにこれからも続きます。
その儀式の意味をどこまで深く理解して臨むかは聖餐のパンと水
を受ける人にかかっています。
信仰や知識が深まらなければこれからもただのパンと水とし
て目の前を通り抜けていくことでしょう。しかし、イエス・キリストの
贖いのしるしであるパンと水だと感じたならば、特別なパンと水に
思えてくることでしょう。 その気持ちが証です。
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2012.4.15
友人からこれ読んでとこんなメールが転送されてきた。
「生きてたら夏にはつつが無く 還暦を迎えるが…昔のサラに起こった奇跡が 現代の還暦を迎える私にも起こるかも‥」 そして、間髪いれずにこんなメールが受信箱に飛び込んで来た。
「今、笑ったでしょう・・・。」
確かに私は第一報を読んで「まさかそんなこと・・・」と思って「うふ」っと笑ってしまった。
私はその友人の言葉を読み終わると・・・背筋が凍りつくようなぞっとした気持ちになりました。
アブラハムとサラの話が一瞬にして心に過ぎったからです。
「それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。主にとって不可能なことがありましょうか。・・・・」。サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。」 創18:12-15
「神様が全知全能だということを忘れて・・・やっちゃいました・・・普通の人になっていました。」 と溜息。
私もサラと同じように笑い、そして主の力を思い知らされて恐れました。
まだまだ、本当の信仰の意味を知らないと思い知らされた出来事でした。
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2012.5.2
先日のことである。
考え事をしながら、つい夢うつつ・・・うたた寝をしてしまった。
「出来るかな? 出来ないかな?・・・・」
と、意識があるような、ないような中で永延と繰り返していました。
何の決め手もなく、繰り返し繰り返し・・・その二つの言葉が脳裏に浮かんでは消えていきました。
しばらくしていると心の中にこんな気持ちが湧き上がってきました。
「あなたの信仰はどこにあるのですか?」
「主は全知全能であることを忘れたのですか?」
「あなたが行く道を知らなくても、もっとも頼りになる主があなたの道案内をしてくれるのを忘れたのですか?」
「主を信じなさい、そうすれば・・・主が必要な助けを与えてくれます」などなど
そんな言葉を聞きながら、わが道を振り返ってみると・・・
確かに、私の一番弱かった時に、迷った時に、精神的にも経済的にも危機に瀕したときに・・・いつも、何かしらの助けを得ていた。
言葉だったり、物だったり、知恵だったり、方法だったり、人だったたり、お金だったり・・・・たくさん
助けられてきた事を思い出した。 その時に、私はそのことを知らなくても主が道案内をしてくれるならば問題ないと思った瞬間でした
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