気まぐれ日記 その8

 祈りの答え  2010.9.13

  祈りの答え  2010.9.13
 
 お祈りの答え。
 いつも自分が望んでいるものばかりが
 叶えられるわけではない。

 主からの気づかない答えが自分を守っ
てくれていることがある。

 主からの気づかない答えで助けられてい
ることがある。

 もしかしたら、誰かが自分の知らないところ
で助けてくれているかもしれない。

 だから、続けて祈ってみたらどうだろうか?
 
 確かに、主はあなたの必要としているものを
 を知っています。

 祈りの答えを気づかないだけで、叶えられて
 いると思います。 

 



伝道を終える最後の晩

 2010.9.22 伝道を終える最後の晩

 伝道を終える最後の晩に祈りました。
 私よりも、たくさんバプテスマをみた宣教師は
たくさんいます。
 私よりも、たくさんモルモン書を配った宣教師が
います。
 私よりも、たくさん伝道した宣教師がいます。
私よりも、レッスンやアプローチをした宣教師が
います。 
 「私の伝道はどうだったでしょうか?」と
 その時に、聖霊を感じて
 「よくやった」と言われた感じがしました。




神殿結婚 (結び固め)

 神殿結婚 (結び固め) 2010.9.24 

東京神殿の結び固めの部屋・・・。
久々に入りました。
 鏡が相対に向かい合う中・・・
ぽつんと祭壇がひとつ。
 真っ白い衣に包まれた
新郎と新婦がひざまずいて
式指揮者の言葉が語られて
永遠に結び固められました。

 鏡の中に写るふたり・・・
見詰め合いそして、瞬きをした時に
ふと鏡に写る自分そして、その背中
そしてまた、自分そして背中と
永遠をまのあたりにする。

 愛する姉妹と自分が鏡の中で溶け
合いひとつになっていく。
 写る姿を数えることなどできない永遠。 
そして、それは父であり母であり祖父祖母たち
顔も見た来ない先祖たちの繋がりでもあり、
まだ、見ぬ子供たちとそして子孫たち・・・。
 自分たちだけではない永遠をも合わせ鏡は
感じさせてくれる。
  
 天の王国で住むために必要な儀式、結び固め。
 天父と主イエス・キリストの愛。

 なかでは



2010,10,12 総大会で感じたこと 

  2010,10,12 総大会で感じたこと 

 一昨日、総大会のDVDを見ました。
私の心に残ったものは・・・。

 聖典の戒めや原則、教義そして信仰によって
行なわれた出来事や祝福や信仰を失った時の
失われていく信仰と祝福を自分に引き比べて
生活しているか?

 ということ。

 私もそうであるが、聖典の出来事を読んで
「これって夢物語」と心のどこかで思って他人事の
ように思う心がどこかにある。

 でも、すべてすぐには自分に出来ないとわかっ
てはいても、信仰を持ち続けて
聖典を読んで心に感じたひとつやふたつの真理を
信じていきたいと思うようになりました。

 自分の中でどんなに小さくても成功談作る。
それを、信じてまたひとつ、またひとつと信仰を
ふくらませていく。

 それが大切だと思いました。
 
 



本当に失敗したと思う瞬間。

 2010.10.24

  よく生活していると「失敗した・・・」
と思う瞬間があります。

 ほんの少し時間が違うだけで損や
やり損ねた時とか
 言わなきゃよかったと思う言葉や
やらなきゃ良かったと思う行動・・・。

 でも、それらは時が過ぎてしまえば
笑い話になりますね。

 しかし、本当に失敗したと思う瞬間が
人には訪れます。

 それは、この世を去ってから
主イエス・キリストの前で自分の歩んだ
人生を報告する時です。

 その時はもう・・・あなたの試しの時期
が過ぎたのでやり直しが出来ません。

 なのに自分の歩んだ人生を正直に
報告しなければなりません。

 幾つかの主からの質問とそれに答える
自分。

 そして、主が未来のあなたの行き先を
告げられた時,二度と変えられない未来を
あなたが知った時に「本当に失敗した」と
心から思うことでしょう。

 ローマ人への手紙14章10−12節には
このように書かれています。

 わたしたちはみな、神のさばきの座の前
に立つのである。 

 すなわち、「主が言われる。わたしは生き
ている。すべてのひざは、わたしに対してか
がみ、すべての舌は、神にさんびをささげる
であろう」と書いてある。  

 だから、わたしたちひとりびとりは、神に対
して自分の言いひらきをすべきである。  




宣教師の持つホワイトハンドブック=祝福の本

 2010.11.15 

 宣教師が常に携帯するようにと指示されている
白いカバーの小さな本があります。
 それはワイシャツの胸ポケット入る大きさです。
 私も20数年前に常に持ち歩いて伝道をしてい
ました。
 そして、毎朝毎朝・・・伝道地に着いた翌朝から
帰る日の朝まで少しづつ読み続けました。
 だけど・・・私はそれは私の行動を縛り付ける
ものだとばかり思っていました。
 宣教師として高い標準を維持して生活をするた
めに必要な約束事が書かれていたからです。
 
 しかし・・・先日のこと、私の集うワードの宣教師
のホワイトハンドブックを見る機会がありました。
 私の時代からするとやはり少し厚みが増えてい
ますが大きさ的に同じであったので、とても親しみ
を感じていた時に、表紙にマジックで手書きの文
字が書かれているのに気がつきました。
 それは・・・「祝福の本」と英語で書かれていまし
た。(宣教師に直訳してもらいました)

 その宣教師が言う事には・・・
「この中の規則を守れば神様が祝福を与えてくれ
るのです。だから祝福の本。」

 その説明を聞いて・・・「ああそうか・・・」と私。
約束を守る人には神様は約束を守られる。
 教義と聖約130章21節にもこのように書かれ
ていますね。
「すなわち、神から祝福を受けるときは、それが
基づく律法に従うことによるものである」
 と神様は約束してくれています。

 バプテスマに至る道筋はいろいろな要素が重な
り合ってバプテスマを受ける本人が最後は決断
することでありますが・・・そのホワイトハンドブック
を持っている宣教師は神様からまさに祝福されて
ここ数ヶ月のうちに3人の人をバプテスマにまで
導きました。

 すぐ横で彼らを見ていると奇跡が行なわれてい
るようです。
 



 ニーファイとレーマン

2010,12,6

 ニーファイとレーマン

 最近、モルモン書を読んでいて思うことがあります。
ニーファイとレーマンは「約束の地」までの時間と行動では
同じ事を体験をしたはずなのに・・・

 まったく、とらえ方や見方が正反対なのに改めて気づきました。

 たとえば、ニーファイとレーマンたちの弓が折れて食料になる
動物が取れなくなったときにのエピソードもそうです。
 (ニーファイ第一書16章18節〜33節)

 レーマンは不平を言い、そしてこの時は父リーハイまでが
神様に向かって「つぶやいた」と書かれています。(20節)
 
 それでもニーファイは不平や不満を言うことなく・・・
主を頼り、主に祈りを捧げて信仰篤く事態をとらえていました。

 主の力を信じる・・・そして、頼る時に主は私たちに足りない
モノを補ってくれるとニーファイは知っていたのでしょうね。

 ニーファイだって、知らない事や作った事のないものを
主から行なうように命じられれば一瞬の戸惑いもあったかと
私は想像します。

 しかし、主を信じる信仰を持って主に願う時に多くのものを
主から与えられたのでしょう。

 私の場合・・・、その「一瞬の戸惑い」から抜け出せないで
いる場合が多いですね。

 主に頼らなきゃと思うのは、随分後になってから・・・
気を取り戻して・・・からでないとできません。

 では・・・・。 






聖餐の祝福

2010.12.13

 聖餐の賛美歌を歌い、パンを祝福するために
神権者が祝福文を読み上げて集う人々に配られ・・・
 そして、水の祝福文が読み上げて配られる。

 1830年4月6日に教会が設立されてから変わ
らぬ儀式が淡々と毎週の安息日に繰り返される。

 私もかれこれ30年近くもこの儀式に出席して
パンと水を頂いている。
 
 パンは主イエス・キリストの体を象徴し、水は主の
血を象徴する。(参照 新約聖書ルカ22章14−20節)
 毎週、頂くことで私たちが救われる為に誰に信仰
を持ち続けなければならないか思いを新たにする
儀式でもある。
 イエス・キリストの犠牲を思い起さなければ・・・
この儀式も意味が無いものとなってしまう。

 さて、昨日の聖餐会で私はパンを祝福するように
言われました。
 神聖な聖餐の儀式・・・毎回、少し緊張はするけれ
ども淡々とこなしていました。
 しかし、昨日は違っていました。
 折りしも、先週一週間に聖餐についてのレッスンを
準備をするために色々と準備をしていたので、心が
聖餐に向いていたのでしょう。

 聖餐の賛美歌が歌われたいる間に、パンを細かく
手でちぎる時に・・・私に小さな示現が開かれました。
 私の目はパンをちぎる自分の手を見つめていました。
トレーのなかにさかれたパンが落ち着いてくを見てい
ました。
 その時、私の目の前で動かされている手は、過ぎ越
しの食事をとるために席の整えられた二階に広間で
パンをちぎられているイエス・キリストの手に感じました。
 側には12弟子が座っているのではないかと錯覚する
くらいに・・・あの日のあの広間を身近に感じました。

 私の胸は高まりこの一時がとても神聖な時間に感じ
ました。

 今まで、何度も祝福は頼まれましたが・・・はじめて
主イエス・キリストと共に聖餐を過ごしたと思った聖餐会
でした。

 このような小さな経験が証を強めてくれる事を証いたし
ます。 
 



日当を下げられて・・・二人の自分が心にいました。

2010,12,19

 先日、仕事帰りに社長からの家に寄るように言われて、
何を言われるのかとヒヤヒヤと一日を過ごした。

  そして、夕方に社長の家によると・・・社長がとても神妙
な顔つきでおもむろに話し出したのが「一日の日当を下げ
させてもらう」といの事。
 去年からこれで4回目のベースダウンであります。 
 これでとうとう、私がこの仕事をやり始めた30年前の日
当になってしまいました。 
とても、厳しいです。
 でも、今の経済状況やうちみたいな弱小会社の現状を
考えると仕方がないかなと・・・。と思いつつ・・。
 心の中のこの世的な自分が、文句をブツブツ言い始め
ました。
 
 帰りの車の中でもブツブツ・・・まったく、収まりようがあり
ませんでした。
 しばらくして文句も言い疲れて「ふー」と溜息をついたとき、
少し我に返ったのでしょう。
 心の中でなぜだか、暖かい気持ちと「何とかなるさ」という
安堵感みたいなものが居座っているのを感じました。
 
 この気持ちなんなんだろう?
 と、思いながらもこの世的な自分が悪いことばかりを思い
つき、自分を追い詰めていきます。

 暖かい気持ちと安堵感を感じている自分がいるにの、
なぜか悪いことばかりを思いつく自分。

 それは、目の前に二つの道があり、どっちを選ぶと言わ
れているようでした。

 その時、祈りました。
 「この暖かい気持ちと安堵感はどこから来ているので
すか?」
 と、イエス・キリストの名前を通して天父に尋ねたときに
 これは「聖霊」の影響力だと気づきました。

  そして、心の中に言葉が浮かんできました。
「大丈夫、あなたを見守っています。あなたは主の什分の
一などの戒めを守っています。
だから、守られています。今感じている気持ちを信じ続け
なさい。そして、自分で出来る事を自分の生活を見直し
考えなさい。」

 それから、今でも油断するとこの世的な自分が心のなか
に現れないわけではありませんが、思いを主に向けた時に
感じる暖かい気持ちと安堵感を聖霊の言葉として信じるよ
うに一歩を踏み出していきたいと思います。 

 車のアクセルを放してしまえば、スピードが減速して
いずれは止まってしまうように
 信じ続けるというアクセルを踏み続けるのも、大切な信仰
だとつくづく感じます。



モーセの民の呟き。

 2011,1,28

 今、旧約聖書を読んでいます。
モーセの率いたイスラエルの民。
 事あるごとにモーセに呟き、神様に呟く。
食べるものがない、水がない、肉が欲しい。
 戦う相手が強すぎる。

 若い頃は、
「なんて信仰のない人たちなんだろう」と
思っていた。

 しかし、何十万人の人たちが荒れ野を
旅して・・・今日の朝ごはんを食べても・・・
夕方のごはんは食べられるの?
 明日は?大丈夫か?

 なんて現実が目の前にあったら
やはり、不安は募るばかりですよね。

 そんななか・・・
 信仰・・・主が見守ってくれているという・・・
ことを、見直さなければ・・・と思いつつ読ん
でいます。

 主は今も私たちを見守っていくれています。
それを証いたします。






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