2010.8.28
私が神様を信じなくなっても・・・
神様は生きています。
私が教会を離れても・・・
神様は生きています。
私が神様を否定しはじめても・・・
神様は生きています。
もちろん、あなたが神様を信じて
いなくても・・・
神様は生きています。
神様が生きているといことを・・・
信じるか信じないかは私たちに
まかされているからです。
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2010・8・25
旧約聖書の時代の神・イスラエルの聖者
(生前のイエス・キリスト)は旧約の時代の人々の
直面していた問題に祈り求めるならば答えられた。
モルモン書の時代の神、イスラエルの聖者
(生前のイエス・キリストと復活後のイエス・キリスト)
はモルモン書の時代の人々の直面していた問題
に祈り求めるならば答えられた。
それらの記録が聖書であり、モルモン書だと
思う。
だから、イエス・キリストは今という時代の
人々の直面している問題に祈り求めるならば
答えられる。
なぜならば、主イエス・キリストは神さまだから。
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2010.8.22 ジャンケン
ある時、ジャンケンをした時の話です。
私はジャンケンをする前に「パーをだしますよ」と
宣言をしました。
そして、「ジャンケン、ポン」をして
私は宣言通りに「パー」を出しました。
そして、相手は「チョキ」を出しました。
私は負けて、相手は勝ちました。
二人目とまたジャンケンをしました。
私はジャンケンをする前に「グーをだしますよ」と
宣言をしました。
そして、「ジャンケン、ポン」をして
私は宣言通りに「グー」を出しました。
しかし、相手は「チョキ「を出しました。
私は勝って、相手は負けました。
そして、3人目4人目・・・。と私は宣言をして
ジャンケンを続けました。
こちらの手の内を教えているのにも関わらず
負けはしましたが、勝つこともありました。
私はおもしろいなと思いました。
正しい情報を確実に教えているのにも
関わらずに、その情報が正しいかと迷う人がいる。
そして、迷った末に・・・・私の信じようとはせずに
負けてしまう。
人には、選択の自由がある。
目の前に繰り広げられている出来事を自分で
判断する事ができる。
自分で判断することで出来るから、色々な結果が
出てくる。
末日聖徒の教えもこの原則に似ていると思う。
もう、200年も前にジョセフ・スミスが神様のもとに
帰るための方法を導きと示現によって教えられた。
バプテスマを受け、戒めに従って、神殿で儀式を
受けて人生の終わりまで信仰を守り通したら救われる
と教えた。
これは、ジャンケンで「私はグーをだしますよ」と
言っているようなものであります。
でも、その宣言を信じる人、信じない人・・・
人それぞれ・・・。
それぞれが自分自身の中で選んでいる。
自分の価値感では、相手が信用出来ないと思ったら
尋ねてみたらどうでしょうか?
心を空にして、イエス・キリストの御名によって
御父に祈ってみたらどうでしょうか?
心の中に何か良い気持ちを感じたらそれは
すべての真理を証する聖霊の働きです。
(参考聖句
モルモン書の中のモロナイ書10章3−5節)
あなたが、良い気持ちを感じられるようにいつも
祈っています。
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2010.7.21 それでも、イエス・キリストは存在しておられる
よく、思う。
イエス・キリストを信じていると言っても
すべてが順風満風にいくわけじゃい。
いい時、悪い時・・・好調不調という波は
巡ってくる。
良ければ良いで、次第に高慢になり
イエス・キリストから離れていく。
悪ければ悪いで、自分境遇から
イエス・キリストを信じられなくなる。
それでも、イエス・キリストは存在して
おられる。
だから、自分に問いかける。
「今、イエス・キリストを信じてる?」
「本当に、そう思ってる?」
っと・・・。
平凡に人生を過ごしたいと思っている
だけなのに・・・。
そんな中でも、浮き沈みがあり・・・
イエス・キリストから道を反らそうとする
色々な誘惑がある。
さて、主イエス・キリストは生きています。
そして・・・それを証いたします。 |
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2010.6,13 知識と信仰
イエス・キリストへの
教え、原則、教義、、奥義。
以前は、これらの神様の知識が増せば
信仰も自然と培われると思っていました。
しかし、そうでもない事がわかりました。
例えば、こんな聖句があります。
新約聖書の ルカによる福音書 4章 41節
悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びなが
ら多くの人々から出ていった。
しかし、イエスは彼らを戒めて、物を言うこ
とをお許しにならなかった。
彼らがイエスはキリストだと知っていたからである。
悪霊たちは、トエスキリストが神の御子である
知識を持っていた。
それは、この地上に投げ落とされる前の知識を
そのまま持っていたからです。
でも、彼らには知識があっても信仰がないのです。
知識と信仰・・・。
似ているようで似ていない・・・この二つ。
知識は聖典を読んだり、解説書を読めば誰でも
知る事が出来ます。
しかし、信仰は・・・「主を信じよう、従おう」という
思いからはじまります。
まず、主イエス・キリストを信ずる信仰を持つ。
マタイによる福音書 17章 20節 にはこんな聖句が
書かれています。
するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が
足りないからである。よく言い聞かせておくが、
もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山
にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移る
であろう。このように、あなたがたにできない事は、
何もないであろう。
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2010.5.14 再臨
昨日の早朝・・・。
真っ暗な東の空を見つめていました。
まだ、太陽の痕跡さえない空を・・・。
次第に、赤みを帯びてきて
雲が照らし出されてきました。
しばらく、そのまま身じろぎもせずに
瞬きもせずに冷たい空気の中で
潜んでいる。
あるがままの雲が光にあたって
とても美しく・・・
そして、太陽が一筋の光を東の空
からはなった瞬間・・・。
私は一瞬目を閉じてしまいました。
柔らかい光が顔に差込、温かみが
伝わってきました。
目を開くと、まばゆいばかりの光が
あたりを照らしだし、暗闇がすーっと
消えていきました。
太陽が昇りはじめて・・・
キラキラと光る情景を見つめながら・・・
心に浮かんだものは・・・
主イエス・キリストの再臨も同じように
なるんだな・・・
と、感じました。
はじめて、再臨が私の心に中に
焼きついた一瞬でした。
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2010年4月13日 主を頼ることの大切さ
ニーファイの父リーハイが子供たちの将来を
思って語った言葉。
「ところで、息子たちよ、わたしはあなたがたが
偉大な仲保者(イエス・キリスト)に頼り主の大い
なる戒めに聞き従い、主の御言葉に忠実であっ
て、主の聖なる御霊(みたま)のの御心に添って永
遠の命を選んでほしいと思っている。
肉の思いとその中に潜む悪に従って、永遠の死
を選んではならない。肉の思いは、悪魔の霊に力を
与え、あなたがたを捕らえて地獄に落とし、悪魔は
彼自身の王国であなたがたを支配するであろう。」
(2ニーファイ2章28〜29節)
今朝・・・何気にモルモン書を開いたらこの聖句が
飛び込んできました。
仲保者とはイエス・キリスト。
イエス・キリストがゲッセマネの園で祈られたこと・・・
そして、ユダヤ人に訴えられローマの裁判にかけられて
十字架の上で死なれたこと・・・。
これは、傍観者にとってただの出来事でしかないが
しかし、主イエス・キリストを少しでも信じようと思った
者にとって、とおとい主の犠牲。
これらの行為によって、主はすべての人の罪と死を
贖った。
だから、私たちが主イエス・キリストを信じる時のみ・・・
主は私たちの罪と死を取り除く事が出来るのです。
その事を、理解していたリーハイは子供たちに
主イエス・キリストを信じるようにと心から願ったでした。
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2010年3月27日 「証」(あかし)
末日聖徒では、「証」(あかし)という言葉を
使って、自分が得た確信や純粋に信じている信仰や
イエス・キリストへの信仰を話します。
この教会では、一番最初に証したのは創設者の
ジョセフ・スミスであろう。
1820年の早春に、真の主イエス・キリストの教会を
見つけるという過程の中で森の中でひざまづいて祈って
いると少年ジョセフは父なる神と主イエス・キリストに会
われたという彼の話は・・・。
少年ジョセフの小さな口を通して、語られた話であります。
その経験を話したことは、その当時の人々にとって
そして、今に至るまでの多くの人々にとってただの
物語のように思えるかもしれません。
しかし、そのお話を聞いてその人の心の中で主イエス・
キリストが確かに生きてましまし、少年ジョセフに会われ
語られたと感じることが出来た人々にとって、その話は
主イエス・キリストが生きている。
そして、確かにこの教会を今でも導いているという
確かな「証拠」になっています。
モルモン書の中には、たくさんの人が主イエス・キリストに
会っています。
そして、その証拠として「証」をしています。
でも、それらの物語はただの言葉でしかありません。
しかし・・・
その言葉の繋がりが、私の人生を変えたように・・・
あなたの人生を変える言葉、証になったらいいですね。
そして、その証があなたの心の中で何かを感じさせたならば
それは真理を証する「聖霊」という方の後押しを・・・言い方を
変えれば影響力を受けた証拠です。
それでも、それを素直に受け入れる、受け入れないかは
あなた自身に選択にまかされています。
主イエス・キリストは今でも生きてましまして、私たちを
導いています。
その事を証します。
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2010年3月19日(金) モルモン書・・・今日、読み終わりました。
モルモン書・・・今日、読み終わりました。
モロナイのお約束。(モロナイ書10書3節〜5節)
また、試してみました。
また、この記録を受けるとき、これが真実かどうか
キリストの名によって永遠の父なる神に問うように、
あなたがたに勧めたい。
もし、キリストを信じながら、誠心、誠意問うならば
神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあ
なたがたに明らかにしてくださる。
そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのこ
との真理を知るであろう。
(モロナイ書10書4節〜5節)
読み終えるたび・・・何度祈り試した事だろう。
心の中に感じる良い気持ち・・・。
それが、聖霊から来る答え・・・証(あかし)だと信じ
ています。
主イエス・キリストは救い主である事を証します。
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証 2010.9.5
イエス・キリストは救い主であることを証いたします。
神様は生きていることを証いたします。
ジョセフ・スミスの最初の示現は真実であることを証いたします。
トーマス・S・モンソン大管長は生ける預言者であることを証いたします。
あなたの心に残る証のフレーズはあったでしょうか?
もう、20数年前の断食証会の時です。
その時ある姉妹がこのように話してくれました。
以前の証会の時に、
「イエス・キリストは救い主であることを証いたします」
と一言だけ証をしたかったのですが出来ませんでした。
でも、今日やはりその証をしたくてこの説教台で話しています。
と、言って「イエス・キリストは救い主であることを証いたします」
と、証をして席にもどりました。
何のエピソードもないその証が私の心に残りました。
そして、時々思い出しては心が温かくなってあの日と同じ
気持ちになったと思うと証が新たになっています。
証をする時聴く時に聖霊が私たちの心に、
言い換えれば霊に語りかけてくれています。
今、感じた思いを素直に受け止められるように祈っています。
そして、それが聖霊からの証であることを証いたします。
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