気まぐれ日記 その9

お祈り
 2011.2.2

 お祈り・・・
心の中を表現するのは難しいですが
あなたが、イエス・キリストの御名をとおして
天父にお祈りをした後に・・・
 平安や良い気持ちややる気や
「まぁ、なんとかなるさ」
「まぁ、いいか」などと
 感じたならばそれは確かに祈りが
聞かれている証拠です。
 なぜならば、私がそうだからです。

 ちょっと、教会用語的にいうと、
聖霊(みたま)の影響力を受けたと
いうことになります。
信仰を持つ瞬間は・・・。 
 2011.2.10

 先日、求道者の方と話していました。
信仰っていつから持つのだろうか?と・・・。

 今まで、いろいろと考えてきました。
少しづつ養っていくものだ。だとか・・・
沢山の知識を持っていないといけない。とか・・・
聖書、聖典をたくさん読むなければいけない。とか・・・
教会に毎週集わなければいけない。とか・・・

 信仰は見えないけど、信仰心は形や行いに
なって現れます。

 しかし、自分は信仰をっているのやら・・・
と、自問自答とわからない。

 でも、わかりました。
 信仰って・・・
「イエス・キリストを信じようと思った瞬間から
信仰になるのだと」
 
 もちろん、そう思った瞬間から強い信仰がある
わけではないけど・・・。
 知識や経験は少しづつ後からついてくるもの・・・。

 イエス・キリストを信じようという気持ちが心の中
であればそれは立派な信仰だと・・・。

 しかし、信仰をもったなら主の戒めに従わないと
いけないと思います。 

 

 
祈り
   2011,3,3

 お祈りをしても聞く耳がなければ
答えは聞けません。
 自分の思い通りの答えを期待して
いませんか?
 それが心を曇らせてしまいます。

 心に浮かんでくる気持ちと思いや
アイデアを受け止めてみましょう。
 それが答えだということはよくあり
ます。
 
時間を守ること・・・。
      2011.3.5
  先日、「なぜ時間を守らなければいけないのか?」という話になった。
聖典から「時間を守らなければいけない」という類の聖句を見つけて出してください。質問されても直接戒めや律法として書かれているところはないと思います。 
 だとすると、時間を守らなかったとしても直接私たちの救いに関係のある話ではなさそうですね。
 話が弾んだ時に、ある兄弟がこんな話をしてくれた。 
 時間を守る事は相手に愛を伝えることであると言われて・・・こんな話をしてくれました。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。  
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。」(1コリント13:4-5)
 という一連の愛の表現の中に「不作法をしない」という言葉があります。
 不作法を辞書で調べると「礼儀作法にはずれること。礼儀を知らないこと」ということになります。
時間に遅れることは礼儀作法に反することであるし、もしその相手が尊敬する人だったら素直に「気まずい」思いを誰しもが心にいだくことでしょう。だから、言葉としての表現は違いますがクリスチャンとして守る必要があるのではないでしょうか?いわれました。
 そして、私も「時間を守ることに関して」ここしばらく考えました。
そして、行き着いた答えがこれです。
 時間を守るという行為は・・・突き詰めていくと誰かとの約束です。
例えば、電車の時間・・・時刻表より発車の時刻が一分遅れたことがありました。
その時、怒鳴り声をあげて車掌さんに文句を言っている人を見た事があります。 
 この事から、確かに時間を守ることは他の誰かと約束をしていることだと知る事ができます。
 神様との約束は最善をつくして守ろうと努力するならば、人との約束も同じようにする事が大切かと思いました。 



地震、津波、原発事故
 2011.5.16

 地震、津波、原発事故・・・そして、電力不足。
 3月11日前は、そんな事は絶対にあり得えない
夢物語のように思っていた。
 しかし、地震が起こり一瞬にして私達の意識を
変えてしまった。

 確かなものなど、何もないということを思い知ら
せれました。

 被害にあわれた人々に、日々の祈りを捧げる
だけしか出来きない私が少し悲しいです。

 でも、祈りには力があると信じています。
 
 
 
日の栄えの王国に入れる人はどんな人?
 2011.9.7

 こんにちは・・・
日の栄えの王国に入れる人はどんな人?
 30年も前に教会に入ったときに
素朴に思った疑問。

 しばらく、考えていました。
どのくらいでしょうか?
 数ヶ月、数年・・・もっと・・・。

 そんなある日。
とうとう、その答えを神様は私に教え
てくれました。
 その人は、教会をお掃除するおじさんでした。
(当時は専属でお掃除してくれる管理人さんが
いてくれたのです)
 
 私が教会に入ってから、毎週の週末になると
掃除をしに教会にやってきていました。
 私がいろいろとあって、教会に行くと・・・
いつも笑顔で出迎えてくれます。
そして、ちょっと立ち話をしては、また
掃除をし始めます。
 それは、何年たっても、かわりませんでした。

 そんなおじさんを主は
「この人だよ」と私の心の中に囁きました。

 それが証拠に、時々その時の思いと状況を
強い思いとして忘れることなく思い出します。

 そして、今でもご健在でね。
時々、ステーク大会なので会うと、私の名前を
呼んでニコニコしながら握手をしてくれます。

 
 
 旧約聖書と新約聖書の神はだれですか?
 2011,9,16

 旧約聖書と新約聖書・・・。
この二つの聖書の神様は別々の方?
 と、教会に入りたての頃は疑問に
思っていました。

 旧約聖書の民は預言者たちが預言した
救い主が現れることをひたすら待ち続けました。

 しかし、何時になっても現れません。
旧約聖書の民・・・ユダヤ人は今も待ち
続けています。
 

 でも、2000年前に・・・その救世主は
エルサレムに現れて彼らに会堂で神殿で
「あなたたちが待ち焦がれている救世主は
私である」と何度も宣言をしたにも関わらず
信じようとしないばかりか、サタンだと言う者
まで現れて十字架につけて殺してしまいました。

 そんななか・・・一つの民は旧約の時代と
新約の時代を通して同じ信仰を守り通した
民がいます。
 それは、ニーファイ人です。
 モルモン書の中のモロナイ書7章25−26節
にこんな聖句が載っています。 

・・・人はキリストを信じるようになった。
 その結果、信仰によって人は善いものをこと
ごとく手にした。キリストの来臨までそうであった。 
 
 26 また、キリストが来られた後も、人はキリスト
の御名を信じる信仰によって救われた。・・・
 (一部削除、一部強調しています)

 旧約聖書でも預言者はすべてイエス・キリストを
神様として信じて、証して・・・時の中間の時に肉体
を持つ人と現れて贖いの犠牲として十字架に掛け
られる事を預言していた。
 そして、キリストが現れた後も・・・そして現在も
イエス・キリストは救い主であり私たちの神様である
事を証している聖句です。
 
 旧約聖書そして新約聖書では、とてもわかりづらく
なってしまった真実です。
 
 モルモン書は書かれた時の原文がそのままジョセフ・
スミスにもたらされ、それを翻訳されたからこそ、当時の
ままの内容が私達に知らされることになったのです。

 モルモン書は旧約の神はイエス・キリストであり、
新約の神もイエス・キリストである事を証している箇所
が随所に出てきます。
 
 そして、私も旧約の神も新約聖書の神も共にイエス・
キリストである事を証します。
 

 
タマゴが先かニワトリが先?
 2011.9.25 


 タマゴが先かニワトリが先?
どちらだと思いますか? 

 タマゴかと思えば、ニワトリが生んだんだよね。
と思い。
 ニワトリだと思えば、そのニワトリもタマゴから
生まれたんだよね。
 と、思う。

 いつまでたっても、グルグルと頭の中で回るだけ。

教会に来る事に二の足を踏んでいる友人と話していると
 最近、そんな思いをしています。
 
「教会に行って、なにかあるの?」
「まず、その祝福というものを見せて欲しい」
「仕事が忙しいだよ」

 などなど・・・。

 教会を行かない理由は幾つでもスラスラと口から
出てくる。

 私のかける言葉はその人の心には届かないみたいです。
 
 そんな時、わが身を振り返り考えてみる。

「教会に行って、なにかあるの?」
 と、思ったことがある・・・しかし、教会に行き続け
やはり、いつも感じる心の中に満ちる喜びを感じてこれが
その答えだとわかった。

 「まず、その祝福というものを見せて欲しい」
 人生で一番金銭的に苦しかった時5年間に、天倉の窓が
開かれて雨あられと現金が舞い込んできました。
 時々ふと、我に返ると本当にこんなに楽な方法でこんなに
多額の報酬を頂いていいの? と思うくらいに・・・
 時には、自分の本業を越す給料も時々あった。
 今も、その恩恵を受けていますが・・・その時ほどでは
ありません。什分の一の律法を守りとおしていると、
やはり、必要な時に必要なだけの助けが得られることを
証します。
 (ちょっと、具体的過ぎたかな?)

「仕事が忙しいだよ」
 主の事を第一に考えましょう。
 本当に忙しいのならば・・・祈りや聖典学習をやりましよう。

 
わたしはあなたの胸を内から燃やそう、
 2011.12.10

  「あなたは心の中でそれをよく思い計り、その後、
それが正しいかどうかわたしに尋ねなければならない。
もしそれが正しければ、わたしはあなたの胸を内から
燃やそう、それゆえ、あなたはそれが正しいと感じる
であろう」 DC9:8


 この聖句は、不安になったとき、疑問に思ったとき、
さまざまな道に迷った時に行なうべき方法を教えてくれている。
「ようするに、祈りましょう」と教えているのであります。

 その答えとして主はこんな方法を示してくれました。
「胸の内から燃やそう」

 その言葉を違う言葉で言い換えると私ならばこんな
言葉になります。

 ドキドキするような思いや出来そう、やれそうだなと
思う気持ち。

 いい方法が思いついて、今すぐにでもやりたいよう
な気持ち。

 その時にやるべき事がわからなくてもなんだかいい
気分。

 ただ、ひたすら平安な気持ちだったりします。

 その反対に、主の答えでないとこのような気持ちに
なります。

 「しかし、もし、正しくなければ、あなたはこのような感
じを少しも受けず、思いが鈍くなり、それによって謝って
いる事柄を忘れるようになる。」 DC9:9
すべてのことに感謝していますか?
  2011.12.12 

 すべてのことに感謝していますか?
 
 聖典を紐解いてみると、  テサロニケ人への第一の手紙 / 5章 18節には
「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があ
なたがたに求めておられることである。」
「また、与えられる祝福が何であろうと、あなたがたは御霊によって神に感謝しなけ
ばならない。」DC46:32
と、書かれています。

 私の宣教師時代の同僚でE長老という人がいます。
 ある時に、彼がこんな証をしてくれました。
 「JMTC(宣教師訓練センター)を出る前晩に、同僚との最後のお祈りの時に・・・
なぜか、口から出る言葉がすべて感謝のお祈りでした。
今までの人生の中で主の見守り、そして、祝福、家族や教会、知り合った人、JMTCでの出来事・・・。」 

 そして、同僚も同じように感謝の祈りで聖霊に満たされたと・・・。
私は時々、その話を聞いた時のその場所に戻っている時があります。
 そして、一人自分を振り返って色々な事に感謝するために祈ります。
 
「祝福を数え上げるには努力が必要です。」 (リアホナ2011,12.p4)
 アイリング管長は「努力」と言う言葉を使っていますが、もし、祝福って何と思
っているのならば、「見方を変える」という言葉に言い替えたらどうでしょう。
 見方を変えてみたら、今あるすべてが私のためにあると思えるようになると
思います。 


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