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心を聖め、主イエス・キリストに近づいて
聖霊を受けるに相応しくなると
この世の雑念が消えうせて・・・。
次第に心の中に思い浮かぶことは
主の思いとなり霊感となり。
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2009.6.18 「まだ、しるしをもらってないので・・・。」 |
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私が改宗して30年くらいになろうとしています。
早いものです。
今では、考えられないような木の箱のバプテスマフォント・・・おそらく、宣教師のお手製のものだろうと思われる。
それも大きなモノなので普段は無造作に地面の上に放置されていました。
その時に撮った写真を見るたびに、とても懐かしく思います。
そんな当時から最近まで求道者として教会に集っている一人の人がいました。
(現在は他のエリアに引っ越していかれましたが・・・)
その人に、ある時にこんな質問をしたことがあります。
「もう、随分と長く教会に集われているのですから・・・教会に入られたらどうですか?」
少し、ダイレクト過ぎる質問をしてみました。
「まだ、しるしをもらってないので・・・。」
と、ポツリ・・・。
同じ時を歩いている私にはたくさんの「この教会が真実だという証を下さるのに、なぜこの人にはそれがないのか?」 という思いに満たされました。
そして、その人の昔からの発言を一つ一つ思い出してみました。
教義的な事は確かに話していましたが、イエス・キリストを証する事は一度もありませんでした。
それを考えるとイエス・キリストを信じてみよう。という気持ちまで達してないのでしょうね。
モルモン書の中の一節にはこんな一節があります。
「キリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれらが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。」
(モルモン書の中のモロナイ書10章4節)
「キリストを信じながら」と書いてあるとおりに、まず、私たちが信じないと始まらないという原則。
だから、しるしは、まず私たちが信じてからでないと来ないものである。
私は教会においては豊かに恵まれていると思っています。
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2009.6.14 (神はすぐに祝福を授けてくださる。) |
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祈ってますか?
聖典読んでますか?
祈ってなくても、読んでなくても・・・
今日からまたリトライすればいいんだから
今朝、モルモン書で目に留まった聖句の
モーサヤ書 2章24節に
「あなたが命じられたとおりに行うならば、
神はすぐに祝福を授けてくださる。」
と、書いてありました。
いつからでも、すぐに再出発できるだから・・・。
ガンバ・・・。
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2009.6.11 (個人的な霊感を見極めるには・・・) |
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とある方からこんな質問を頂きまして・・・。
「神様からの個人に対しての啓示を、自身の妄想や悪霊からの囁きかどうか見分ける方法はありますか。」
私はこのように答えました。 参考になればいいです。
私はこのように考えています。
「良心」に従うことだと。この「良心」は神様がすべての人に備えてくださった方位磁石のようなものだと・・・。
少なくても、自分がしていることやしょうとしていることが、良い事か悪い事かくらいの判断はわかると思います。
「自分に浮かんだ考えが自身の妄想や思い込みではないか」と思ったときには、一度、立ち止まって良心に尋ねてみたらいいと思います。
行き過ぎていると思えば、修正や度の越すようなことを避ければいいと思います。
「悪霊からの囁きかどうか見分ける方法はありますか。」
悪霊の囁き・・・も、100%ウソで固められていません。
おそらく、6〜80%は本当のことを言っています。
そうでなくては、最終的に多くの人が騙されません。
でも、決定的に違うのはその目的だと私は考えています。
最終的に、何を目的にしてその行動をするかといことになります。
私はクリスチャンですから・・・。
すべて事は私自身がそして、私と触れ合った人が主イエス・キリストに心を向かわせるためにしたい。(まだまだ、未熟なために願望でもあります。)と思って行動するようにし
ています。
もちろん、すべて上手くいくわけではありませんがそうのような思いでしています。
しかし、悪霊そしてサタンはすべての人を主イエス・キリストのみ側(そば)に戻さない為、そして、自分の惨めな境遇に(サタンはこの世の終わりには地獄に入らなければいけない運命を本人自身は知っているので)近づける目的のためにいろいろと計画を立てているということを理解すれば・・・いろいろと見えてくるものがあると思います。
悪霊の囁き・・・を見分けるのも、やはり心を落ち着かせて「良心」に尋ねてみるというのが最善の方法かと思います。
一つ書きおきたい事があります。
「良心」も、私たちが常にもしくは心に偽って悪い事ばかりを選択していると、その精度とか感じる能力が鈍ってしまいますから、気をつけたほうがいいかと思います。
私が通っている教会では、教会の会員になると「聖霊」という方の力や影響力を私たちがふさわしければ常に受ける事が出来る儀式を受けます。
これは、聖霊を受けた者がよく原則や教義を理解すれば物事の良し悪しが「良心」よりももっとはっきりと心に示されると約束されています。
聖書の聖句で引用すれば・・・。
新約聖書のガラテア人への手紙5章16−26節を参照してください。
では、
ここで書いた事がお役に立てば嬉しいです。
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2009.6.6 絆が深まると・・・色々と深い話が出来るようなる。人も神様も同じ・・・) |
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面白い事を発見しました。
今年、ワードに転入した人と凄く仲良くなりました。
最初は、挨拶程度のメール交換が・・・今はかなり突っ込んだ福音&教義の話になっています。
そうなってくると、やはり体験からくる過去の話で盛り上がる。
「そうそう、そうなんだよね。」といった具合で・・・。
でも、そのうちに・・・そんなことまで話してくれちやっていいの?
と言うくらい濃い話になってくるんですよね。
共鳴、共感・・・そして、相手を信頼してくると「この人ならば・・・」という気持ちから、その人にとって大切な話をしてくれるようになる。
・・・という事をこの出逢いから学びました。
この原則・・・私たちと神様の間でも同じことがいえると気付きました。
私たちも宣教師から神様のことを聞いて、はじめは半信半疑で祈り始めると思います。。
でも、その初々しくもたどたどしい祈りでも神様は充分祈りの答えを与えて下さっていることを私は知っています。
しかし、それを答えとして受け止めるか否かは私たちにまかされています。
祈りというメールのやり取りで、神様からの答えを心に感じ続けた人は少しづつ神様との信頼関係が深まっていきます。
そして、その人自身の生活のすべてを祈りの中で神様に話はじめる様になります。
私は伝道にも出た経験から、神様に祈りを捧げたすべての人は神様から答えを受けいてることを知っています。
しかし、それを偶然とか一時の気分の高揚だとか、自分の知識に頼りすぎて、あるいは慢心な気持ちから答えを答えして受け止められない人がとても多いのに驚かされ、悲しく思います。
モルモン書のアルマ書37章37節(p420)にはこのように書かれています。
「あなたのすべての行いについて主と相談しなさい。そうすれば、主はあなたのためになる指示を与えてくださる。」
まず、私たちが祈りを通して神様にお話をすることが大切になります。神様を信頼して信仰を持つということですね。
すると、神様は私たちの心の中に主の心を伝えてくれます。
そのような経験をたくさんしてくと、私たちは信頼と信仰の上に心がいつも神様に向いくようになります。
すると、今度は神様の方から時々私たちに話しかけてくることがあることに気付くことができます。
私たちが気付いていないことや理解出来ない事、近い将来に危険に遭遇することなどであってもその回避方法や対処方法を霊感やインスピレーョンという形で心の中に伝えてくださることがあります。
そう、神様から私たちに話しかけられる事があることに気付くのです。
祈りを通して築いた神様との信頼関係は、私たちが一方的に話しをすると言うのでなく・・・、神様の方からも必要に応じて話しかけてくださるという約束も伴っています。
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2009.6.2 (教会の霊的なことを、頭で考えてはいけません) |
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(ある事を悩んでいる時に、与えられた啓示)
私が多くの人に、良い影響が与えられる
か?
そんなことを、頭の中で考えている時に・・・。
とても強い恐怖が心の中に襲ってきました。
「出来るわけない。変わるわけない。」
という、囁きが・・・。
そのプログラムを行う事は別段、難しい
プログラムではない。
では、誰が何のために・・・こんな思いを私に
送りつけている。
心の中のもう1人の私なのか、
それともサタンなのか?
どうしても、識別がつかなくて・・・つかなくて・・・。
悩んでいる時に、「イエス・キリストの御名で
心を聖めなさい」と聖霊が囁きました。
「私の心のこの思いを、イエス・キリストの御名
で聖めてください。」
と短い祈り。
スーと心の中の重苦しい気持ちが退いてい
きました。
そして、私にとって一つの大切な原則が知ら
されました。
「教会の霊的なことを、頭で考えてはいけま
せん。聖霊を感じつつ、聖霊を信頼しながら
すべてのことを行ってください。もし、聖霊に
従って行った集会が思うような結果が出なく
てもそれはあなたのせいではありません。
すべて、主イエス・キリストはご存知です。
一番大切なのはあなたが従うことです。」
「頭で考えてはいけません」、か・・・。
もちろん、プログラムを組み立てるのに頭、
知恵や今まで得てきた経験を否定しているわ
けではない事はすぐにわかりました。
霊的な部分、聖霊を感じて証を強め、持ち
続けるための本当に大切な部分は聖霊を感
じ続けていないといけなということを・・・。
いつも、最後はここにたどり着くのだけど・・・、
山の頂上を登るのにいろいろなルートがある
ように一つ一つ試して、実地体験していくしか
私は成長できないタイプ。
そして、自分の感覚の中に備わっていく。
今は、心の中に平安があります。
最初に、囁いていたのはやはりサタンでした。
もう1人の私に働きかけていたのですね。
理由?
それは、簡単・・・私が主の教会員だから・・・。
主の業をたとえ少しでも推し進めようとする
者の心を挫くためにね。
人をサタンが最後に行かなくていけない惨
めな世界に陥れるために・・・。
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今、聖書を読んでいます。
民数記まできました。
モーセが民を率いて、エジプトを出て・・・
約束の地に入るまでの話。
話は変わって・・・
そう、十数年ぶりに聖書を買いました。
今まで使っていた小型の聖書の文字が
年のせいか読みづらくなったので中型版を
東京神殿のブックセンターで買ってきました。
読み始めて、気付いたことが一つ・・・。
誰も開いた事のないまっさらのページを
めくっていると、気持ちもリセットされるのか
小型版の聖書では心を動かされなかった
聖句が光輝いています。
小型版の聖書では以前の書き込みや
ラインマーカーが邪魔をしていたのかな・・・
それとも、私が少し大人になったのかな?
でも、新しい感覚がすーと心に入り込んで
きました。
古い聖典も捨て難いですが、新しい聖典も
気分を変えるのにいいかもしれません。
ちなみに、聖書はこれで4冊目です。
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昨日、大会号(教会機関紙 リヤホナの200
9年5月号の総大会説教)をパッと開いて一番
最初に目に入った話がですね。
p136のマイケル・T・リングウッド長老の話
でした。
その話のなかで、こんな一節に心が動かされ
ました。
主が今の私に話しかけたようです。
「わたしは何度も(聖霊の証を)あなたに告げ
てきた。あなたは何度確信が必要なのか」と。
(( )は付加)
リングウッド長老のように何度も確信を得られる
ように祈り、願ってきた私に、思いや印象でなく
現実的な文字として言葉として語りかけてきました。
私をはっとさせられ、主から一歩後ろから押さ
れる言葉になりました。
もう、迷ってはいけないと信じようと改めて
強く思った言葉になりました。
それと、次に開いたのがp97のべトナー長
老でした。この話は、ビデオ集会の時に聞いて
もう一度読んでみたい記事だと思ってました。
その時は、お話の印象だけがあり話者が誰だ
か知りませんでした。
が、パラパラとページをめくっていたら、心に
「ここ」という思いが沸き起こり、わけもわからず
に一段落を読みはじめた時に「この話を探して
いたの」となんだか嬉しくなってしまいました。
では、私にとって昨日のちょっとした事件で
人生という時間の中では大事件になりました。
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昨日から聖書を読み始めました。
(一昨日までは、歴代大管長の教え ジョセフ・スミス
を読んでました。)
創世記11章には・・・バベルの塔の話があります。
「・・・シナルの地に平野を得て・・・『れんがを作って造って
よく焼こう。』こうして彼らは石の代わりに、れんがを得、
しっくいの代わりに、アスファルトを得た。
・・・さぁ、町と塔とを立てて、その頂きを天に届かせよう。
そして、われわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを
免(まのか)れよう」 (二節から五節までの抜粋)
この聖句を読んだ時・・・心の中が凍りつく思いを感じました。
自分たちの持てる科学と技術、そう学びととった学問を誇る人々。
主を忘れた人々のたどり着く道。
いつの時代も同じだと・・・。
人の驕り(おご)高ぶりがは、主を愛せなくする
大きな原因の一つです。
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頑(かたく)なな心を和らげられるのは
心にまで沁み込む優しさだけ。
論理的な頭だけの理解では
人の心を動かせない。
心に語りかけてくる聖霊の言葉を
無視したら永遠に私は変われない。
聖霊に従うといという柔軟な気持ちが
私を霊的に成長させる。
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2009.5.1 (反モルモンのサイトを読んでいて) |
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時々、反モルモンの人たちのホームページで「モルモン書」を批判している文を読む事があります。
彼らは今現在のこの世の研究結果である、様々な論文や科学的学術的な知識を探し出してきてそれらを土台にして問いただし、あるいは考察しては
「だから、モルモン書は真実の書物ではない。」と結論付けている。
ただ、私は研究成果に異論を挟む気はまったくありません。
それが、今現在のおける見方あるいは結果なのですから・・・。
しかし、私は読みながらある事が心に思い浮かびました。
「この人たちの信仰はどこにあるのだろう?」
そして・・・
「信仰とは物事を完全に知ることではない。したがって、もし信仰があれば、あなたがたはまだ見ていない真実を待ち望むのである。」 (モルモン書のアルマ書32章21節)
私が思うには、おそらくモルモン書は科学的には永遠に疑問だらけの書物になると思っています。
その理由として、もし科学的にすべての疑問が解決出来てしまったら「信仰」を持つという私たちの選択が出来なくなってしまうからです。
世界中の科学者が徹底的に調べて・・・その結果、すべての人が口を揃えて「モルモン書ほど正確な書物は世界中にない。」証したらどうですか?
信じるという信仰はまったく必要なくなってしまいます。
そして、モルモン書から信仰を通して学び取ることもなくなってしまいます。
だから、私は神様はモルモン書をこの世の学問では解き明かされないようにたくさんの
鍵を用意されていると思います。
モルモン書が真実の書物かどうか・・・を知る唯一の方法は、モロナイの約束を心から実行するだけです。
「また、この記録を受けるとき、これが真実かどうかキリストにの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたに勧めたい。もし、キリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたに明らかにしてくださる。そして、
聖霊の力によって、あなたすべてのことの真理を知るであろう。」
(モルモン書の中のモロナイ書10章4〜5節)
私、匿名(とくなき)はこのモロナイの約束を通してモルモン書が真実の書物であることを
証いたします。イエス・キリストのみ名によって証します。
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2009.4.23 (主の祝福は『ふと、振り返った時に・・・』わかるもの。) |
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昨日の朝、目覚めて夢心地の時に・・・
「主の祝福は『ふと、振り返った時に・・・』わかるもの。」
そんな言葉が すーと、心に入ってきた。
しばらく、時間の流れを蒔き戻し
思い出の糸を手繰り寄せていくと・・・。
「うん、うん。わかる、わかる」
と至福の時を過ごしている自分がそこにいた。
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2009.4.19 (教会はどうしていくのだろうか?) |
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教会はどうしていくのだろうか?
主イエス・キリストを礼拝するためです。
でも、もっと・・・身近な表現をするならば
心をす〜とさせるためです。
表現が砕け過ぎ?
平安や喜びを得るためです。
そんなんなら、趣味や娯楽で充分だと
という人もいるでしょうね。
でも・・・、ちょっと違うんだな・・・。
心地好さがいつまでも後を引くです。
心の中を見せてあげたいと思うのですが
出来ないのが残念です。 |
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2009.4.12 (伝道の祈りプログラムの効果) |
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私の通っているワードは若い人たちが集っていません。
子育て世代がみんな卒業して、その子供たちも
それぞれ進学の為、就職の為にそれぞれの地に巣立っ
ていってしまいました。
誤解のないように書き足して置きますが・・・
子供たちが全然いないというわけではありませんよ。
安息日も・・・昔のように子供たちの騒ぎ声が
聞こえなく・・・ちょっと、淋しいワードになっています。
そんなある日、ある姉妹から
「こんなプログラムがあるよ」
と、渡されたのが
「伝道の祈りプログラム」なる一枚の紙切れ。
そこには、21日間に渡り毎日聖句を読み、そして
伝道に対して祈るという至って簡単な・・・(いや、
シンプルなと書き直しましょう。)方法が書いてありました。
何かしなければ・・・という思いがありましたが、何から
手をつければいいのかわからない私ではありましたが・・・
「ちょっと、簡単過ぎないか?」
という、思いがよぎりました
「まて、まて、まぁ、やってみるか・・・。ダメで元々」
くらいの気持ちでやってみることにしました。
真面目に最初の21日の聖句と祈りの日々を通り過ぎた
頃、私に何かが変わっていることに気付きはじめました。
毎日、毎日・・・朝、昼、晩と時には忙しく数秒単位のお祈り
でしかないことがありましたが、コツコツとお祈りをしました。
そんなことを振り返って、よーく、考えてみると・・・
自分の心の中に新たな証しが芽生えていることに気付いた
のです。
「神様は今でも生きている、そして、今も私たちが信仰さえ
持てば奇跡を起こす事が出来る神であるということ・・・。
奇跡が起こらないのは、私たちの信仰が枯れているから
だということを気付かされました。」
二回目の21日が終わる頃・・・その気持ちはもっと深く
なって行きました。
そして、このプログラムを通して・・・最初に改宗したのは
「私」だったとその時に気付きました。
三回目を始めて、しばらくすると色々な奇跡を目にすこに
なりました。
ワードに転入者が入りました。
活発会員です。
「心の内で・・・祈りの効果だ。」と一人喜んだのを覚えてい
ます。(もちろん、ワードの誰かの祈りも聞き届けられたの
でしょうけれど)
そして、その転入者からの情報で私の宣教師時代の同僚
が不活発なっているという情報を頂き・・・電話して証したり・・・。
その時は、少し感化してくれたのですが、教会に戻るか
どうかは・・・本人次第ですかね。
でも、これからも電話でフォローしていこうという気持ちに
なっています。
何よりも、その情報が与えられたことに神様に感謝して
います。
そして、10数年教会に来てくれなかった人が教会に足を
運んでくれたり・・・。
そして、転入者がまた来るとの情報がビショップから
聞きました。
もちろん、私だけがお祈りしたからこのような結果が伴って
来ているなんて一概には言えないと思います。
結果が伴うか伴わないかは主の御心次第です。
でも、主の業に参加しているという気持ちはとても強く
もてるようになりました。
本当に、主は小さなことをコツコツとしている時に
私たちを助けてくれると言う事を証ししたいと思います。
イエス・キリストは救い主であり、ジョセフ・スミスは主イエス
・キリストに召された預言者である事を証しします。 アーメン。
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2009.4.2 (ジョセフ・スミスの最初の示現) |
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今日、ジョセフ・スミスの最初の示現を読みました。
もう、何十回読んだでしょうか?
何度読んでも・・・思い知らされることがあります。
今日、感じた一節は・・・。
・・・私は筆紙に尽くし難い輝きと栄光を持った二人
の御方がわたしの空中にたっておられるのを見た。
すると、そのうちの御一方がわたしに語りかけ、
わたしの名を呼んで別の御方を指して「これはわ
たしの愛する子である。彼に聞きなさい」と言われた。
(高価な真珠 ジョセフ・スミスー歴史1:17 p64
又はパンフレットに記載されています)
ここに登場する御二方は、最初にジョセフに声を
かけたのは天父でありました。
そして、この後にジョセフに声をかけられたのが
主イエス・キリストです。
(全文を読まれればどのような経験をされたのか
ご理解いただけると思います。)
ここでは、ジョセフの祈りに答えが与えられた時の
ことをクローズアップしています。
アメリカの田舎の少年ジョセフは当時14歳であり
ました。
しかし、天父は「わたしの名を呼んで」と書かれて
いるようにジョセフの名前を呼んで話しかけられて
います
「あそうか、父なる神は一人一人の存在をご存知
で名前もちゃんと覚えてくれている。」
と、思った瞬間・・・いつものように、聖霊を身近に
感じてなんだか私は嬉しくなりました。
ジョセフのような経験は、私には一生出来ないかと
思います。
でも、天父と主イエス・キリストが私を見守ってくれ
ていると思うととても心強く思います。
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2009.3,28 (「心」ってどう思いますか?) |
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「心」ってどう思いますか?
以前の私は心は、その人自身だと思ってました。
でも、人は霊と肉(肉体)から成っている。
と、いうモルモン書や聖書の教えを深く考えていく
中で・・・。
「心」っというモノが少し違った存在に思えてき
ました。
心というものは「場所の名前」だと思うようになり
ました。
たとえば、歌のランキング番組などを想像して
してみてください。
私たちの世代では「ベストテン」という番組は
誰でも知っています。
「心」というのは自分の体の中のベストテンと
いう番組です。
日々、何かをしていると思いが浮かんできます。
その思いは小さかったりしてすぐに忘れてしまう
もの、反対に影響や印象が大きくて怒りに憎悪に
なったりします。
それでも、一時の感情で終わる事もしばしばです。
しかし、時には、一生をその思いがその人を支配
することもあります。
私たちは常に「心」という場所で、新しく浮かんで
くる思いや古くからある思いをランキングにかけて
います。
そして、その一つ一つの「思い」にランキングを
つけています。
1位、2位、3位くらいにランクされている思いを
霊(自分という存在が)が常に意識して行動に移
しています。
不思議なことに人は、1位になっているかといっ
てそれをするわけではありません。
しなきゃいけないと思いつつ・・・他の思いが重
なりあってわざとしないこともあります。
思いというのは、押し黙っていれば誰にも伝わ
らない。しかし、それを霊が選択すれば表に
現れる。
そうゆうモノだと思うようになりました |
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2009.3.21 (科学という物差しでキリスト教を見つめたら・・・) |
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科学という物差しでキリスト教を見つめたら・・・。
イエス・キリストが十字架の上で処刑されてから
3日に再び蘇ったという、復活という教義は到底、
受け入れられないものだと思う。
復活という教義は末日聖徒だけのものではない。
カトリックもプロテスタントも聖書を信じている以上
イエス・キリストが復活したようにクリスチャンを名乗る
者ならば一人一人が復活する事を信じている。
先日、私の隣組でお葬式が有った。
私も隣組の一員として、お葬式そして火葬とを心痛な
思いで時を過ごしました、
特に、火葬場で釜に入る前に最後のお別れをして
2時間弱過ぎてから対面した時の姿は、いつもながら
言葉を失う出来事です。
人を形作る白い骨が寝台に乗せられている。
それを見つめながら、自分に問いかける。
「この白い骨に、再び肉や血そして神経が通り
人になるのだろうか?」
いつの日か、この人が私に向かって
「やぁ、ひさしぶり? 元気だった。」
なんて、また話しかけてくれる日が来るのだろうか?
なんて・・・。
科学という物差しで推し量れば、絶対に起こらない
ことである。
しかし、イエス・キリストの信仰を育てていくと
聖書そしてモルモン書の預言者たちが深い信仰を持って
書き記してきた復活という教義が必ず起こる事実である
とうことが心と頭で理解出来るようになってきます。
聖書にはこんな一節があります。
彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、
生き返ることができるのか」
わたしは答えた「主なる神よ、あなたはご存じです。」
彼はわたしに言われた「これらの骨に預言して、言え。
枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨
にこう言われる、見よ、わたしはあなたがのうちに息を
入れて、あなたがたを生かす。
わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、
皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。
そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」
(エゼキエル書37章3〜7節 p1203)
旧約聖書の神様がこのように預言者に伝え記し、そして
新約聖書では、主イエス・キリストが復活されて弟子や
多くの信者にその復活された肉体をお見せになった記録が
記されています。
モルモン書にもこのように記してあります。
神がこれを受けられるのは、復活がすべての人に及び、
大いなる裁きの日に、すべての人が神の御前に立つように
するためである。
(ニーファイ第二書 9章22節)
科学は日進月歩の早さで進んでいます。
これからも、昨日そして今日の不明なモノがどんどん解明
されていくことでしょう。
しかし、「わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じ
させ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。」
ための神様が定めたシステムとか理論が解明されること
はないでしょう。
だから、謙遜になり祈り求めなければ与えられないのでは
ないかと思います。
主イエス・キリストが救い主、贖い主である事を証します。
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たとえば「忙しい」という森の中にいると時々何から手を付けてよいのかわからなくなる事があります。
それでも次々に目の前にやってくる、こなさなければいけない・・・片付けなければならない物事を手当たりしだいに済ましていく。
ふーと気がつけばもう寝る時間。
なんてことがよくあります 。
そんな夜に「今日も良く頑張った」という充実感があるのですが、どことなく足りないものを感じる事があるのです。
それは心が満たされる。という思いが足りなかったと言うことです。
それはただ、何かに感動すればいいとうものでもありません。
その気持ちを伝えるのにこんな聖句がぴったりかもしれません。
イエスは答えられた「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるのである」と書いてある。マタイ4:4
「神の口から出る一つ一つの言」にふれて聖霊を感じて喜びに満たされる感覚。
パンやごはんが体を動かす栄養素ならば・・・
聖霊に感じて得た「喜び」は体の中に入っている霊を活気付ける栄養素なのです。
その霊を活気付ける栄養素がないと、心の病気に負けてしまいます。
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3日間、聖典をあまり読まなかった。
そしたら、心がお腹を空きすぎて、(精神的に)倒れそうでした。
それを、信仰心のない友達に話したら・・・。
「今までしていた習慣をしないと、誰でもそうなるんじゃないかな?」
と、言われてしまった。
「まぁ、そうゆう風にも受け止められるか・・・。」
でも、主イエス・キリストを思う時に心に湧き出る思いを
伝えられないのがとても歯がゆいです 。 |
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モルモン書や聖書を読んだり、祈ったり何故するのでしようか?
主イエス・キリストの信仰を持たない人には主の望む奇跡を起こせないからです。
モルモン書にはこのように書き記してあります。
・・・奇跡はやんでしまったのであろうか。見よ、そうではないと、わたしは
あなたがたに言う。 また、天使たちも人の子らに働きかけることをや
めてはいない。
(モルモン7章29節)
奇跡が行われるのは信仰によるのである。天使が人に現れて教え導く
のも、信仰による。したがって、もしこれらのことがなくなっているとす
れば、それは不信仰のためであ(る)。 (モルモン書7章37節)
主イエス・キリストの信仰を持つという事は、大切なことです。
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