気まぐれ日記 その2 

2009.7.16 時々、祈りたくない時があります。

 時々、祈りたくない時があります。
そんな時、心によぎる聖句があります。

 
 ・・・悪霊は祈るようにとは人に教えず、
            かえって祈ってはならないと人に教える。
                 
 ・・・あなたがたは気を落さずに常に祈らなければならない。

              (2ニーファイ32章8−9節の抜粋)

 背中を押されるので言葉を搾り出してみます。




2009.7.16 福音を伝えるのに苦労する事。
  福音を伝えるのに苦労する事。

  イエス・キリストを信じていない人に福音を伝えることは非常に難しい・・・。

友達  「贖い(あがな)?贖罪(しょくざい)?何それ?」
私     「イエス・キリストがあなたの罪のために十字架の上でなくなられた
           と言う事」
友達     「そんなことしなくても、私はちゃんと生きてるよ」
私        「・・・・。」

 まったく、歯車が合わない時・・・あなたならどうしますか?

 モルモン書にはこのように書いてあります。

 「・・・それは、純粋な証をもって責めるほかに、
  人々を改心させる方法が
             ないことを知っていたからである。」   
  アルマ書4章19節 

 純粋な証を得るには聖典を読み、祈り、聖霊を通してこの福音が真実であると知
ること。
 そして、それを繰り返す事のによって純粋な証という油は手にいれることができ
  ます。
 



2009,7,13 奇跡って、通り過ぎるとすぐにただの出来事になる。

  自分がどうしても・・・どうしも・・・かなえてもらえたい夢があるとする。
毎日、毎日、神様に熱心にお祈りをする。
 これでもか、これでもか、と言うくらいにお祈りをする。
 寝ても覚めても、脳裏からそのことが離れない。

 そんな祈りが、少しづつ小さな歯車を動かし
ついには大きな歯車が動き出した。

 どうにもならないと思っていた扉が、主イエス・キリストに
よって開かれたのである。

 そう、本当に・・・奇跡でした。

 嬉しくて嬉しくて涙を流し、感謝のお祈りをする。

 しかし、
 奇跡って、通り過ぎるとすぐにただの出来事になってしまうのですね。

 ただの偶然、当たり前だった・・・そんな気持ちが心を支配し始める。

 古くは、エジプトから脱出したイスラエルの民が紅海を主の力によって渡った。
しかし、その後にすぐに主の力を忘れて何度も、何度も主に呟いたように。

 



2009.7.12 「来世で感じる悲しみ」
   「来世で感じる悲しみ」


 最近、少し考えました。
死後の世界である、星の栄の王国、月の栄の王国で感じる悲しみとは、なんなんだろう?と・・・。

 2日くらい考えた末に、心の中にある言葉が浮かんできました。

「自分が生きている間に努力をすれば、手に入るはずだった昇栄(しょうえい)言葉を変えれば日の栄の王国に二度と自分が入る事が出来ないと実感した時の悲しみ」

 なんだか、どこかで読んだフレーズだと思って探していたら・・・
「歴代大管長ジョセフ・スミスの教え」のp224の中段くらいに書いてありました。
 持っている人は、開いてみてください。




2009.7.8 「聖霊は常にあなたの伴侶となり」
 昨日の夜、教会の友人と話していた時のことです。
ふとした事から聖霊の話になった。

 「聖霊は常にあなたの伴侶となり」 教義と聖約121章46節の一節

 末日聖徒の教会員ならば一度ならず聞いた事のあるフレーズです。
私自身もとても好きな聖句で、心の中でよく思い浮かぶ聖句です。

 
 昨日の夜、あれやこれやと二人だけのファイヤーサイド(お話の会)に
なり、経験を分かち合っている時に・・・。
 「なぜ? 伴侶という言葉をジョセフ・スミスは使ったのかな?」
という事になりました。
 (正確には、神様からの啓示で書き記しているので神様からの言葉ですが)

 そして、二人で言葉を入れ替えはじめました。

「聖霊は常にあなたと共にあり」
「聖霊は常にあなたを見守ります」
「聖霊は常にあなたを助けます」
「聖霊は常にあなたを導きます」
「聖霊は常にあなたの側にいます」

 どの言葉も、聖霊に対して言い当てているのですが・・・それ以上に
想像力を膨らませる言葉ではありませんでした。
 言葉につまり、二人して黙りこくって少し沈黙が訪れました。

その時に「伴侶」という言葉の持つ意味が心の中に注がれました。

 夫婦は二人の進む方向が同じならば、その絆はとても
強いものになります。
 そして、自由な発想のもといろいろ事を挑戦して乗り越えて
行く事ができます。

 そんなことを心の中で思い浮かべていた時に・・・
 
 聖霊と人との、とても強い結びつきを言い表すのにはこれ以上
ピッタリな言葉がないと気がつきました。

 それと、同じように聖霊と人の意思がピッタリとあえば絆が
深まった夫婦のように共にいられます。

 夫婦はまず二人でありまが・・・恵まれて、子供たちが増えたり
いろいろなモノが増し加えられていくと膨らむモノがたくさん
ありますね。
 
 伴侶という言葉には、そうゆう意味も込められていたのかも
しれませんね。 

 改めて、聖典の言葉というのは・・・確信を突いていると
いう気持ちになりました。 
 



2009.7.4 主の戒めが守れないければ、守れない理由を主に正直に話してください。

 先日、ある教会員がこんな事を話してくれました。
 主の戒めが守れないければ、守れない理由を主に正直に話してください。  
「これこれこうだから守れなんです。」 
 言い訳でもいいし、悪い習慣から抜けだせない理由とか・・・。

 でも、最後に・・・
 「こんな私でも主イエス・キリストを信じています。だから教会を離れなれなんです。主ょ見捨てないでください。助けてください。」 
 と・・・そうすれば、どんな境遇あろうとも主を頼ってくるものには、主はその人を助けてくれます。  
 自分の今いる境遇を嘆くこともできますよ。

 私なんか、前はよく・・・どうしても抜け出せない問題があり自分の境遇を祈り中で何時間も訴えました。 
 主はただ黙って聞いてくれているだけでしたが・・・知らず、知らずのうちに涙があふれ出して主が私の思いを掬い取って軽くしてくれました。 
 
 だからまた頑張ろうという気持ちになり、境遇を投げ出すことなくやってこられました。  

 今まで心に溜め込んでたモノを一度吐き出さなきゃ主イエス・キリストからくる救いの原則は心に入らないからね。  

 聖書があるならばこの聖句も力になります。 読んで見てください。
                              1 コリント 10章13節
 



2009.6.30 証し続けること・・・
最近・・・心の方が先走っていて・・・
あんなにたくさん証をしているのに、結果がついてこない
ことに自分に苛立ちさを感じていました。 
 そんなおり、今日突然にモルモン書の中のエノス書を読みたくなり読みました。
 
 3節にこんな下りが・・・
「かってわたしは、父が永遠の命と聖徒たとの喜びについて
語るのを度々聞いていたのだが、その父の言葉が、そのときになって
わたしの心に深くしみ込んできた。」
 
 「度々聞いていたのだが」という言葉に目が留まりました。
この裏を返せば、その時は「興味がなかった」ということになりますね。
 そして、「そのときになって」 はじめて父親の証が心に届いたという
ことになりますね。
 
 この聖句を読んでいて証をし続けなくてはいけない。と思いました。
もちろん、聞く人がその時は無反応でも何度も証することで、心が証で
満ちていつか、そのことを考えるようになるのですね。
 そして、証をすることで自分が聖霊を感じて証や信仰を深めるという
ことも喜びの一つですね。 


 (友人への手紙から)



2009.6.30 モルモン書 
 モルモン書・・・。
副題に「イエス・キリストについてのもう一つの証」と書かれている。

 そして、モルモン書の作者たちは・・・
「イエス・キリストが救い主であり、贖い主である」と証している。

 私はモルモン書を何度も読み、そのたびに私をイエス・キリストに
近づけてくれます。
 
 ですので、私はモルモン書はイエス・キリストを証する書物だと
証いたします。
 




2009.6.24 「主の時があり、主の時の中で主はみ業を行われていく」

「まず、あなたが信仰を持とう。」
 ということです。
 そりゃ、あなたの気持ちもわかりますよ。
一生懸命、神様に祈っても自分が思うように
神様は事を運ばない。
 だから、信仰をもっても無駄だ
と思いたくなる気持ち。
 
 本当に、いつまでも疑っていてもいいの?
疑り続ければ、神様も何も出来ないよ。
 
 モルモン書にもこう書いてある。
 
 さて、見よ。わたしは神である。奇跡の神である。
わたしは、昨日も、今日も、またとこしえに変わらないこと
また、わたしは人の子ら信仰に応じてでなければ
彼らのなかで業を行わないことを、世の人々に示そう。
                 2ニーファイ27:23
 
 そりゃ、わたしも経験から祈ったからと言って
すぐに解決できないことはたくさんあることは知ってる。
 でも、一つ気付いたことがあります。
 「主の時があり、主の時の中で主はみ業を行われていく」
ということを、残念だけどそれは私たちの時ではないんだよね。
 私たちが主の時とのその時間的な食い違いどのような態度で
過ごしているか、主は見ていると思うのです。
 そして、主の時がかなった時に動かないと思っていた
問題が動き出すのです。

                    (友人へのメール)



2009.6.22 なぜ、聖典を読むのか? 

 「聖典を読みましょう」と
私もよく言うけれども・・・。
 なぜ、そう言うのか私もよくわかりませんでした。

 聖典を読む理由は様々もちろんありますが・・・。

 今朝、祈りの中でこんな答えを頂きました。

聖典を読むことによって聖霊を身近に感じることです。
その心地よい気持ちの中で
「気づかされ」たり「促されたり」、
アイディアが浮かんできたり、慰められたり
悔い改めたり・・・
時には言葉が心に浮かんできたり・・・と

 様々な今、私たちが必要としてるメッセージ
を神様から聖霊を通して受ける事ができるのです。

 聖典を読むということは、文字を追うことではなく
霊的な感受性を高めることが大切なんですね。






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