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忙しくなると一番最初に削りたくなるのが・・・
聖典を読んだり、祈ったりする事。
理由は簡単。
この世的な生活をするのには必要ないからだ。
でも、少しづつ・・・霊的感性は失われ
この世の色に染まっていく。
少しづつだから、そんなこともわからなくなる。
いつしか、霊的飢えも感じなくなりそれが普通となり・・・
主の事はニの次、三の次・・・そして、思い出す事も
苦痛になる。
さぁ、今から聖典を読み、祈りましょう。
錆付いた心に油を注すのはそれしかありません。
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2009.9.17 「イエス・キリストを信じていますか?」 |
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「イエス・キリストを信じていますか?」
と今でも時々自分に問いかける。
問いかける時は、悩んでいる時・・・。
悩むから苦しいから問いかける。
問いかけるから、はじめて主にあって
何かを掴む
それが、自分のやり方になり、方法になり
そして、信仰となり証になる。
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霊的な思いを保ち続けることは
高速道路で100キロ走行してるようなもの・・・。
若かれし頃、メーターの針を睨みつけるように
ピタリと100キロにして東京まで走り続けたことが
あります。
途中、鶴ヶ島の近辺だったか・・・
針は勝手に100キロを示すものだという錯覚に
陥って、アクセルから足を外してしまいました。
うなりを上げていたエンジン音は消えて、
途端に減速して・・・針は徐々に
99・98・90・・・80・・・
次々と抜かされていくのが楽しくて
70・・・60になるまで見守っていました。
その時、保つというのは・・・何かを与え続けな
ければいけないのだと気付かされました。
エンジンにはガソリンを送り込まなければ
いけないと・・・。
霊的な思いを保ち続けるには・・・
聖典を読み続け、祈り続け、みたまに沿わない
思いを退ける。
高い思いを保ち続けるには、それに見合った
だけの思いをとり続けなくてはいけないということ。
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今年の2月頃だったか・・・ワードに転入者が一人入ってきました。
彼の前の所属ワードを聞いて、
「その辺に、加藤 正志(仮名)兄弟っていうのがいると思うのだけど、知ってますか?
私の宣教師時代の友人なんだよね」
と尋ねてみました。
すると、彼は「加藤兄弟は私がホームティング担当でした。 でも、今は不活発会員なんです」
と、返事が返ってきた。
まさか不活発になるとは、幸せに暮らしていると思っていたので
「がーん」
頭を叩かれるような衝撃が私を走った。
私は、すぐさま彼から加藤兄弟の電話番号を聞きだした。
そして、数日後電話をしました。
伝道時代の懐かしい話から、その後の人生行路を話し合い楽しい時間を過ごしました。
なぜ、不活発になったのか・・・まで話してくれました。
人それぞれ、いろいろな転機で一歩歩みを間違えればそうなるのか。
と、思いながら受話器を置きました。
それから、次の月・・・次の月と定期的に連絡をしました。
5月の連休中にたまたま、他の友人の所に行くことになっていて・・・、少し大回りであるが加藤兄弟の家にも行けなくはないと知った時に、私は躊躇せずに彼の家に行く事に決めました。
到着時刻が夜10時頃だった。 そして、彼と夜通し話し合いました。
家族の事、これからの生き方、教会の事・・・
そして、朝の3時頃に私の頭の中に「神権の祝福をしなさい」という御霊の囁きがありました。
私は少し躊躇いながらもその囁きに従うことにしました。
加藤兄弟はその申し入れを受け入れてくれたので神権の祝福をしました。
私の口から主の御心が知らされました。
主は、こんな状態に陥って未来が真っ暗闇に思える彼でも・・・本当に辛抱強く見守って、彼自身が本当に大切なモノを気付いてくれるのを待っているのだと、私の口から出てくる祝福文を聞きながら目頭が熱くなったのを覚えています。
次の日、帰り間際に・・・一緒に彼の通うべき教会に行きました。
祝日の昼間、誰もいません。 ポツリポツリと雨が降る中、彼が教会の建物の外から窓を指差して間取りを教えてくれました。
その一つ一つ、指差す時に楽しい思い出、辛い思い出・・・心の中に浮かんでは消えたのでしょうね。
そして、車に乗り込み・・・エンジンをかけるとワイパーが動きはじめました。
宣教師時代よく二人でお祈りをしたのを思い出して、あの時のようにお祈りがしたくなりました。
アパートの畳の上に跪(ひざまず)き二人で、「求道者が見つかりますように・・・」にいい慣れた、そしていい忘れていた言葉を心と口でなぞってみました。
あの時とは違う祈り・・・また、出会えたこと、そして今ここに二人でいられる事を感謝の祈りとして捧げました。
すると、彼も祈りたいと・・・言ってくれて、彼が祈ってくれました。
私はその一言一言を、昔に戻って聞いていました。
今は辛い日々を送っているが、心の奥底で小さくなってはいるが主を信頼して愛している事を
を証してくれました。 その時に、おそらくもう何年も感じていない聖霊を身近に感じて・・・言葉に詰まり・・・そして、言葉ではなく「むせび泣く」という心の叫びが聞こえてきました。
しばらく、どのくらいそんな暖かい時間のなかにいたでしょうか。
彼も私も心の中でもう一度主をより近く感じた一時でした。
それでも、なかなか教会に集う勇気が出ない加藤兄弟・・・。
9月になり、私のワードの転入者のあの彼がホームワードに帰って行きました。
実行部隊のお帰りです。
彼が帰ったよく週の安息日に、加藤兄弟を朝迎えに行って教会に出席させてくれたそうです。
そして、その晩加藤兄弟からメールがあり・・・
「みんな元気だった。なんだか来週もいけそうな気がします」
と嬉しい言葉が並んでいました。
まだまだ、安心は出来ませんが・・・強力なホームティーチャーが手助けしてくれていれば
なんとかなるか、と少し安心を頂きました。
もちろん、私もメールや電話を機会ごとにして側面で応援して行きたいと思っています。
主は、本当に不思議な事をされます。
私のワードにきた転入者が一つ隣のワードだったら、こんな出会いはなかったろうし、よくよく聞くと、この転勤は本当は違う人が来るわけだったとのこと、それがなぜだか彼にバトンが回されたのだそうです。 そして、この広い日本の中で加藤兄弟を知っている二人が出会えたこと・・・
主に感謝です。
では・・・。 |
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今でも心に響く言葉・・・。
「祝福を理解しなさい」
いつの総大会だったか、誰が話したのか
まったく、覚えていませんが・・・
このワンフレーズだけが私に問いかけてきます。
同じ事を遭遇しても
自分に都合のいい時は祝福になり
自分に都合が悪い時は祝福にならない・・・。
でも、都合が悪い時も歯を食いしばって
通り越して・・・振り返って見ると
意外と自分に為になってる事が多い。
だから、「祝福を理解しなさい」
いつの頃からか・・・
祝福を理解しないと・・・ただ、辛いだけになるって
思うようになりました。
主イエス・キリストは生きています。
主を信じているのだから、主は私たちを
見捨てるわけがありません。
あなたが生死をさまよっていようとも、
そして、早く死のうとも・・・。
主はこの世だけでなく、次の世でも権威を
持っている方です。
次の世で、あなたが必要とされたから
主が召されただけなのです。
(参考聖句 聖書 ルカ12:4−5)
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2009.9.2 すべての道で主を認めよ。 箴言3:5−6 |
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ゲッセマネの園で祈りをするイエス・キリストの絵が我が家にあります。
その絵を見ながら自問自答することがあります。
「心をつくして主を信頼せよ。
自分の知識に頼ってはならない。
すべての道で主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」 箴言3:5−6
言葉をなぞるように、心に染み込ませるように・・・。
ゆっくり、ゆっくりと心に問いかけてみる。
「心をつくして主を信頼せよ。」
と自分を振り返り・・・
「自分の知識に頼ってはならない。」
と謙遜さを忘れていないか?
「すべての道で主を認めよ。」
些細な出来事でも主が介在していることを信じているだろうか?
「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」
主から来る祝福を理解しているだろうか?
いつしか目をとじて、心の中で主イエス・キリストに祈りを通して話している。
イエス・キリストを見る事は出来なくても・・・肌の感じで見守ってくれていると感じる一時です
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伝道プログラム聖句の証。
ここ一月あたり毎日このようにお祈りしました。
「真理を知りたいと願う求道者が自分から教会に足を運びますように」
という物凄く都合のいいお祈りをしていました。
でも・・・来たんです。
先週の安息日に・・求道者が自分の足で歩いて・・・。
それも、4人もです。
二つのグループでしたが・・・
一つは女性で一人でした。
二つ目は3人の男の人のグループで・・・。
バプテスマまでたどり付けれるかは別問題ですが・・・。
私の祈りを聞き届けてくださった神様に感謝です。
モルモン書のモロナイ7:26を読んでください。
信仰を持って、行った者にしか味わえない奇跡を目にすると思います。
では。 |
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2009.8.28 伝道 最初の任地 阿倍野ワードでの出来事 |
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伝道ですか・・・。
チャンスがあればというか・・・私は必ず出た方がいいと思います。
私も20数年前に今は無き大阪伝道部で伝道しました。
あの時の経験は私の信仰の土台です。
「伝道に出たいのですが、何か自分の中で確信が持てないのです。」
その気持ちわかりますよ。
私なんか、信仰の「し」の字も知らずに伝道に出たのですからお恥ず
かしいくらいです。
その上、この教会が間違っていれば途中で帰って来ればいいなん
て思ってたくらいですから・・・。
そう、今年のお正月に大阪を訪れました。
私の最初の任地の「阿倍野ワード」
そのワードは10数段の階段を上りきったところに玄関がありその横
にコンクリート製のベンチがあってね。
そのベンチでよく同僚と二人で求道者を待ってました。
待ちながら、一人で祈ったものです。
同僚は居眠りをしてると思っていたかもしれません。
「この教会が真実かどうか?」ってね。
求道者に教える立場になって・・・
そんな事を祈っていたダメ宣教師でしたね。 (笑)
でも、祈るたび・・・心の中で良い気持ちを感じていて・・・
でも、それを信じきれない自分がいる事も確かでした。
何十回、何百回も祈っても、そんな事を繰り返してね。
最後は、「いつも祈って良い気持ちを感じるのだから・・・それを信じよう」
と思ったのが、私の信仰の始まりだったのかもしれません。
「それを信じよう」 この言葉の心境なった時にはじめて一歩・・・
自分から神様に近づいたのだと思います。
それまでは、臆病な自分がその一歩にブレーキをかけていたんですね。
そんな信仰の原点である場所にもう一度行きたくなったのです。
行ってベンチに座り祈ってきました。
答えは、20数年前のまま・・・。
神様が現れるでもなし、天使が現れるでもなし・・・
聖霊が私の心を暖かくしてくれただけ・・・でも、それで十分でした。
(とある兄弟へのメールの返信) |
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2009,8,25 主の御心を身近に感じるまで・・・ (めがね) |
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今朝、目覚めて手探りでメガネを掴んでみたら
嫌な感触・・・
メガネのフレームから片方のレンズが外れていた。
飛び起きて、フレームそしてレンズ、ネジを見つけ出した。
原因はフレームを固定していた小さなネジが緩んだため
レンズが外れたのだ。
そして、急いでレンズを付けて小さなドライバーで
ネジを締め付けて直しました。
掛かった時間は3分もかからなかったと思います。
直しながら・・・もし、これが出先だったら、どうなったろう?
と、考えた。
こんな何気ない小さな事でも時と場所が違えば
大問題になったに違いない。
遅かれ、早かれ・・・ネジは緩み、レンズは外れただろうと
思う。
でも、比較的時間のあるこの時間であったことに私は神様に
感謝の祈りを捧げた。
最近、よく思う。
こんな取るに足らない私にまで、主イエス・キリストは
心を配り、見守り続けてくれている。と・・・。
そして、それを気付くようになるまで・・・
よく、主イエス・キリストは何も言わずに辛抱してくれたいたと思うと
感謝の気持ちでいっぱいになった。
わたしの言葉の一部分でも受け入れられることができるほどの
信仰になるまで、その望みを育ててゆけ。
(モルモン書の中のアルマ書32章27節抜粋)
「その望みを育ててゆけ。」
まずは、「信じたい」という気持ちを持つ事が大切だと思います。
すると、主がされている事が少しづつ見えてきます。
それは、人の目には見えないから・・・心の目で見るものなのです。
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